休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

KTSとかいう性格分類

前回「わかる」と「できる」の話で触れた心理学者の作った性格分類の話をしようと思います。

欧米ではわりとメジャーな「MBTI」という性格分類があり、いろいろなサイトでそれに類する性格診断(実際には研修を受けた資格者が検査と説明をするものとのこと。確かにこの手の診断は「この質問どういう意味ですか?」と聞き返したくなる設問が多いんですよね)が紹介されていますが、このKTSというのは切り口に用いる用語はMBTIに準じているものの、設問の立て方や「大分類」の仕方が違うという、紛らわしい性格分類です。

現在日本語で読める確かな記事がないのですが、とりあえず英語のWikiをはっておきます。

en.wikipedia.org

かつては日本語の書籍などもあったようなのですが、私はちゃんと購入したわけではなく読んだ人の話を読んだだけなので、おおまかにしか理解していません。なので、もしかしたら間違っているかも…話半分で読んでいただければ。

ここで紹介されている4つの気質は

「芸術家」の資質 … 感じたまま、ひらめきを行動にしていく人たち。
「守護者」の資質 … 社会秩序を守り、財と実績を積み上げていく人たち。
「理想家」の資質 … 世界の法則を客観的に分析し、解明しようとする人たち。
「宗教家」の資質 … 心を持つ者たちの幸福と平和を追求する人たち。

と、だいたいこんな感じに分けられています。

さらに細かくそれぞれが4タイプに分けられ、16分類になるのはMBTIと共通しているのですが、評価軸の使い方が大きく違います。

MBTIの4つの評価軸はこうです。
「外向(E)」か「内向(I)」か
「感覚(S)」か「直観(N)」か (「直感」ではなく「直観」であることに注意が必要)
「思考(T)」か「感情(F)」か
「判断(J)」か「知覚(P)」か (ユングの8タイプにはなくMBTIで増えた軸がこれ)

MBTIはユングの8タイプで「感覚」「直観」「思考」「感情」の4つにわけるとしたところを2次元的に分解したのですが、4つにわかれているように見えるのは「判断/知覚」のどちらに寄っているかで「判断」寄りの軸「思考/感情」を重んじるか、「知覚」寄りの軸「感覚/直観」を重んじるかが変わるから、と考えたようです。しかしこれは「内向」の人は「反転する」とも説明されています。「判断/知覚」はあくまで「外界に対する対応」であり、「内向」の人が本当に重んじていることは「内に秘めて出てこない」というのです。

まあ元になったユングの考えにどれほどの根拠があるのかといえばそこまでなのですが、ここの説明が微妙に「本当かなぁ」となってしまいます。内向だからって外に対する態度が反転までするということがあるんだろうか?

一方KTSではユングの考えに合わせる努力ははなから放棄しているようです。
「感覚/直観」軸が最初の指標になり
「感覚」の人は「判断」か「知覚」かが重要
「直観」の人は「思考」か「感情」かが重要
と考えます。
外界だろうと内面だろうと事象は事象でありそれを「感じようとするか」「観じようとするか」でその次にどうするかが変わるというのです。
「感じる人」はその事象を「どう用いるか」の違いが重要になります。
「判断する」人は常に安定した処理ができるよう感じた事象に一定基準のタグをつけていきます。「いいことか悪いことか」というようなものですね。棚に物事を分類整理したり、何かを言語化するプロセスにも似ているかもしれませんね。
「知覚する」人はそういう基準によらずその場のノリで処理していきます。あるいは言語化できないような基準で処理しているのかもしれませんが、あくまで「今感じているそれ」を見ており、つけたタグを読んでいるわけではないのです。
「観じる人」は事象を「どう解釈するか」の違いが重要になります。
「思考」を基準にする人は客観的に、正確に、間違いのない普遍的な答えを出そうとします。正確さを追求するあまり、「直感的には理解できない答え」になってしまうこともあります。相対性理論の意味するところを「直感的」に理解することはなかなか難しい。しかし宇宙の姿を端的に説明するそれはきわめて「直観的」な答えなのです。
「感情」を基準にする人は主観的に、ただしより「共感」でき「納得」できる普遍的な答えを出そうとします。「平和は尊い」「人を殺してはいけない」「利他的であるべきだ」といった事柄について「なぜそういえるのか」を懸命に伝えようとするのです。

「外向/内向」はどこいったという感じですが、MBTIは「外向/内向」を「他人からエネルギーをもらう」「他人にエネルギーを奪われる」と表現したのに対しKTSでは「発信しようとする」「受信しようとする」と表現しています。考え方が全く違うし、そこまで大きく重視もしていません。

それで
「感じて・知覚する」SPの人が「芸術家」
「感じて・判断する」SJの人が「守護者」 
「観じて・思考する」NTの人が「理想家」
「観じて・共感する」NFの人が「宗教家」
という大分類になるわけです。細かく分けるとさらに4種類ずつに分かれて、芸術家でも職人気質なのかエンターテイナーなのかみたいな違いが出てきます。

感覚と直観の人が分かりあうのはとても大変なんだそうです。言語が違うようなものだと説明されています。一方でEとI、TとF、PとJは補い合う関係の方がうまくいくんだとか。
そして、S:Nは3:1くらいになるんだと。このSというのが「How」で考える人で、Nというのが「Why」で考える人。つまり物事を「どういう形で進行し、それに対し自分がどう対処すればよいか」のプロセス分析で理解していく人と、「物事が起きた原因、目的、意味は何か」の本質分析で理解していく人ということになります。前者の方が即時的現実的な行動が可能ですが、対症療法にとどまり、長期的には事態が悪化する事柄も出てきます。後者は当面の現実的な対処方を提示できるわけではないのですが、うまくいけば根本的な解決につながりうるわけです。

私が昔紹介されていたこの診断の日本語版をしてみたところ、「宗教家」の分類になりました。宗教というと日本人にはうさんくさげに響くのですが、例えばマザーテレサやダイアナ妃がこの分類にあたるということです。
他人が喜んでいればうれしいし、気持ちを害していることが平気なわけではないのだけれど、残念ながら「気が利く」わけではないのです。

多分Sの人は「できる人」を目指す人でNの人は「わかる人」を目指す人なのかなぁと思います。(「できる人」、「わかる人」で「ある」わけではない)

なお、家族で「チコちゃんに叱られる」って番組見てるとチコる率が一番高いのは私ですが、一番ボーっと生きている自信があります。あれは「なんで?」って聞いてくるので向いた番組なんですよ。いつまでも5歳のように「なんで?」と思い続けられる人は、時の制約に縛られずボーっと生きてる人だと思っています。