休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

流血の日々

よくいつの間にできたのだろうという擦り傷とか切り傷とかが増えています。

でも絆創膏を貼ると煩わしくてすぐはがしてしまいたくなります。

派手にすっ転んだりすることもあるのですが、それよりも「明らかに障害物に接触する隙間でも構わずに突っ込んでいく」という動作の雑さによるところが多いと思います。さすがに「人に当たる」ことは拙いと思うので避けるんですが、「物に当たる」ことは(他人の大切なものとか危険とかすごく汚いとかでない限り)気にしないんですよね。
多分常識感覚だと「子供か」って思うんでしょうが、私にはそれが「感覚」ではよくわからないのです。こういうことが積み重なると服とかすぐボロボロになってしまうし、場合によっては物も壊れるし擦り傷もできるので、頭では「避けるべきだ」と思うし、感覚で避けられるならその方がいいのかなという気はしますが、そんなことをいちいち「気にかける」なんて心底「煩わしい」わけです。

別に多少血が出たって、さして痛くもありません。血が止まらないと汚れるのが困りものですが、止まってさえしまえば別にという感じです。

物とか自分の体とか「丁寧に」扱うのってきっと大事なんだと思いますが、私にとっては難しい。そういうことに神経を使っていると自分の心が寛げないという感じがします。「こすれるの嫌じゃないの?」「避ければいいのに」と言われるのですが、私の正直な感受性で判断すると「避けるの嫌じゃん」「こすっていったら早いのに」になるんですよ。まあそんなことでいちいち張り合うのもしょーもないしめんどくさいので、気持ちに余裕があれば避けるようにはしてるんですけど。

確かにちょっとものを粗末にして無駄にしているような気がしなくもないのですが、自分の心の平安や満足のために物を粗末にしたり無駄にしている人ってたくさんいるし、世の中の経済はそれで回ってすらいると思います。

私自身は多少ボロボロなものを身に着けていたって生傷だらけだって気にしないのです。「きれいできちんと整ったものを身に着けていないと嫌な感じがする」という感覚だって「自分の満足のために使えるものをすぐに捨てる感覚」だと、どうしても私は思ってしまうんですよ…多分、そんなんは屁理屈だと、常識的な方は言うんだろうなと思うのですが…

自信って

先日書いた「ジェンダーって」の記事(ジェンダーって - 休むに似たり)で気になっていた自信に関する突っ込んだ本を読んでみました。

こちらは2人の女性ジャーナリストがタイトルのような疑問を抱いて答えを追い求めていくドキュメンタリー形式で書かれていて、面白いです。前述の記事で書いた研究の内容も間接的にですが紹介されています。
www.amazon.co.jp

(好きな本は紙で読みたいタイプですが、際限なく物が増えていくのでKindle版でささっと読んでみました)

※なおこの本の中では便宜上統計的に平均的な女性の傾向を取り上げているけれど、実際にはもっと多様な女性がいることはよく承知している、そういう人たちについて逐一取り上げないことを容赦いただきたいと前置きされています。

結論としては「案ずるより生むが易し」というところでしょうか。

女性は「行動する前にいろんなことを心配しすぎてチャンスを逸している」一方「自信は行動からしか生まれない。過ぎた思考はどちらかというと有害」という話になります。そして「やらない」→「自信がない」→「やらない」→「自信がない」の悪循環に陥るわけです。いやあ、平均的な女性の傾向と前置きされているけれど、これはまさに私のことですね!!!

だから「やってみる」→「自信がつく」→「やってみる」→「自信がつく」の好循環に意識的に持っていこうという話です。

冒頭では、さまざまな著名人のインタビューから、どれほどの成功を収めた女性であっても不安から逃れることはできないということを提示します。揺らがない自信に満ちた女性がいるはずだという幻想を打ち砕く。
それって男性でもある程度そうなんじゃないか、と思うのですが「統計的に見て」女性の方が心配症で、行動する前にぐずぐず考えすぎてしまうという結果が出ている。
さらには「自信過剰な(客観的な評価より自己評価の方が高い)人の方が率直で真摯な自己評価をしてる人より社会的に成功している」という、若干がっかりするような結果も紹介される。この実験が面白くて、学生のグループに実在する(した)人物や出来事などに実在しない架空の人物や出来事などを織り交ぜたたくさんの固有名詞を「知っているものにチェックを付けて」と渡したところ、一般的な心理検査で自信過剰とされたグループの人は「実在しないものも含めとにかくたくさんチェックをつけまくる」のだそう。つまり、彼らの自信には何の根拠も客観性もない。そして何年か後にそういう人たちがどういう社会的地位にいたかを調べたら、実在しないものを正直に「知らない」と答えた人より明らかに成功していた、という…。2人の著者は本当にこの結果にがっかりしていました。

この「過剰なくらいの自信」を女性が持てないということが、男女の仕事のチャンスや評価に驚くほどの格差をもたらしている。自分から「やってみます」と切り出せないこと、自分の意見をやんわりと疑問形で言い断言できないこと、さらに「失敗を自分のせいだと思うこと」etc...

この性差がどこから来るのか、生物学的な研究でも示唆されているといいます。最新の脳科学研究結果を見ると「女性の方がいろいろなことを総合的に考え、他人の考えをくみ取る能力、危険を予測する能力が高くなりやすいために『考えすぎてしまう』から」となるらしいです。協調性と慎重さという美点と引き換えに、自己顕示欲と果敢さは持ちにくいと説明されています。

ただしデメリットは後天的な訓練で変えることができるといいます。特に「不安を感じやすい遺伝子を持つ子ザルを育児能力が高いメスザルに預けると、協調的でリーダーシップの高い立派なボスザルに成長する」という研究結果を紹介しているのが面白い。不安の強さとは感受性の豊かさと表裏一体で、情緒の安定した楽観的な性格の子より教育のポジティブな効果を吸収しやすいということらしいです。
さらに、子供時代親に恵まれなかったとしても、大人になってからでもポジティブな思考を身に着けるのに遅すぎることはないと続きます。いわゆる「認知行動療法」というやつですね。具体的には「漠然と恐怖を感じていることについて、客観的な事実を学び、実際にやってみて、何も悪いことは起こらないということを学習する」。これが「自信は行動からしか生まれない」という結論の肝かもしれません。

ただ、この本は欧米社会を中心に書かれた本なんですね。

日本では「非合理」「有害」と言われがちな「根性論」が「科学的に見て合理性がある」と紹介されているのです。つまり、一度の失敗にへこたれずに何度でも挑戦することが。(本当に「日本にはKonjoという言葉がある」と紹介されている)
日本での算数の授業で、上手に立方体の図を描けない子をあえて黒板の前に連れてきて、周囲の子どもたちの「違う」というコメントを聞きながら何度も描きなおさせて、ちゃんと描けたときにクラスのみんなから祝福の拍手をもらう、という様子を「好ましい姿」として紹介しています。最初この様子を見たアメリカの研究者は「子供に恥をかかせるようなことをして大丈夫なのか」と非常に心配したのですが、やり遂げて誇らしげな子供の姿を見て「これこそ本物の自信だ」と理解したのです。

自分の能力は「はぐくむもの」であって「生まれながらに完璧だ」と信じることは困難な状況を乗り越えるためには何の足しにもならなかった、と「現代アメリカ社会数十年来の、自己肯定感を高めるため何でも褒め失敗をさせない教育から得た教訓」を述べています。そして、アジア系移民の忍耐強さが成功を生み出すことに気付いた。(余談ですが、これはフィギュアスケートの世界に端的にあらわれていた時期があります。クリスティ・ヤマグチの時代はそうでもなかったですが、ミシェル・クワン以降北米ではアジア系のスケーターの活躍が本当に目立っていました。この理由を「フィギュアスケートには身体能力より反復練習の方が必要で、アジア人の親は意図的に子供にそういうことを学ばせようとするから」と指摘する声は多かったのです。)

アメリカ社会というのはなんとなく自信に満ちていて行動的で失敗に寛容というイメージがありましたが、どうやら男性にとってはそうであっても女性にとってはそうではないようなのです。女性は失敗を常に恐れ、後悔と不安で頭をいっぱいにしていて、自分の能力を疑っている。成功を渇望する成果主義社会ゆえなのかもしれない。そんな社会にとっては「才能の有無に関係なくとにかく努力して何かを身に着けること自体が尊い」という考え方が新鮮で、示唆に富んだものになりうるわけですね。

もちろん、日本人の幸福度の低さを鑑みれば、それだけでうまくいくわけがないのは明白です。

この本には他の要素もたくさん紹介されています。特に「他人(特に男性優位の分野にあっては男性)と同じ方法にこだわらない」「既存の価値観で認められようと思う必要はない」といったあたりが日本の女性に必要な感覚かもしれない。
先に紹介した「自信過剰な成功者」の例から、著者たちは「自信を獲得するには馬鹿にならなければならないのか?」という気持ちになるわけです。他人の話をさえぎってまで自分の意見を言おうとする男性の押しの強さに嫌悪感を感じ「ああはなりたくない」とも思っていますが、自信を持って仕事をするにはああできなければならないのだろうか、と悩みます。
そこで、最初にインタビューした「成功したが自信を持てない女性たち」のことを再度紹介する。常に自信の不足や不安と戦いながらも、彼女らは協調的で融和的な性質を失わず、逆に強みとして成功してきた。それを実現できたことこそが、彼女らなりの自信のあり方なのだと結論付けます。ちょっとてらいすぎな気もしますが、読み物として面白い構成になっていますね。

また、ある程度失敗や批判に対して「ロジカルに処理する」マインドセットが必要だろうと思います。失敗を再挑戦に必要な準備につなげる組み立てというか。根性論が批判されやすいのは「あまりにも考えなさすぎる」点だと思います。何の進歩も実感できないまま何度も失敗を繰り返せば、やっぱりくじけます。失敗の中に進歩や次回へのヒントを発見することが必要なのでしょう。

ああそれと、この本では最初から繰り返されていることですが「完璧主義を捨てる」ことも大切ですね。成長や進歩についても「完璧な成長」を果たすまで努力し続けるということは害悪たりうるのでしょう。

 

まあ、こういう本を読んでいても、「私自身は社会的成功がほしいわけじゃないからなぁ」と思ったりもします。私自身はあんまり自己啓発を求めてはいないんですよね。単に知的な興味があるだけなんです。
また、自分は報酬系のバグがあるADHDと診断された人間ですから「達成感による意欲の学習」が平均的な人間よりうまく身につかない傾向はある気がします。
(どういうことかを言葉で説明してもうまく伝わるかわからないのですが、「のだめカンタービレ」というマンガで、のだめが「弾きたい」と激しく渇望したラフマニノフのピアノ協奏曲をあこがれの千秋先輩のピアノ伴奏で1回だけ弾いたらすっかり満足して「次はオーケストラで」と考えていた千秋を拍子抜けさせた様子と、その後千秋の指揮するオーケストラの演奏会でオーボエ協奏曲を成功させる真面目な黒木君がのだめに「楽しいだけじゃダメなんですか、うまくならなきゃダメなんですか」と問われ「もっとうまくなればもっと楽しくなるんじゃないかと思って」と答えたとき、のだめが虚を突かれ愕然としている様子が描かれます。のだめは一貫してちょっとステレオタイプ気味の『馬鹿と天才は紙一重』なADHD女子として描かれていますが、この部分が最も報酬系に問題を抱えるADHDの本質的弱点を描いているところだと感じます)

それでも不安なことについて「こんなの大したことない」と感じられる経験がいかに大切かというのはわかります。

やる気を奮い立たせることじゃなくて、自分の可能性を閉ざさないということについてだったら、なんというか、多少生かせるんじゃないかなと思える本でした。

うんちくおじさんマインド

よく職場に定年退職後のおじさんたちが仕事というわけでもなく自分の趣味の作品だとか評論的なものの情報提供をしにやってきます。

前の部署の上司は付き合いのいい人で、そういう人たちの何か「熱い思い」のようなものを面白がって時間をとって聞いてあげるところがありました。今の部署は女性が多いんですが、聞きはするもののどこか「ハイハイ」という雰囲気が漂っています。

(まあ男だと全然興味なさげであからさまに「今忙しいんで」という態度をとって追い返す人の方が多く、前の上司が珍しい人だったんですが)

田舎なので、その年代のおじさんはインターネットというものをやりません。

そういう人たちが自分を表現するとなると、自らいろいろなところを訪ね歩いて宣伝したり、新聞やら雑誌に投稿したり、地元の施設の発表や展示にねじ込んできたりという押し売り的な形になりがちなのでしょう。
悪いことにそういう人は田舎では希少種なので、対等に議論できる、いわば「冷静に突っ込んだり批判できる人がいない」状況のまま異様な存在感を持ってしまい、大御所になってしまわれる。

(そして厚かましく「自分の活動を知人がインターネットに紹介したと言っていたので、検索してそのページを印刷してほしい」などと要求してこられる)

もう少し若い世代の人は、ネットに発表の場を持っているのでそこまで押しが強くないような気がします。それがいいのか悪いのかというところはありますけど。逆に、押しの強いおじさんの話を面白がって聞く人ってネットで趣味のコミュニティに参加してない人が多いかもしれません。

私も、ネットで誰にともなく壁打ちをしている方が気楽で、リアルの知人に自分の「思い」を語るのは本当に心底苦手ですが、自分の内にこういうおじさんと同じ「教えたがりマインド」ともいうべきものを持っているなあと思うことがちょいちょいあります。教えたがりというか、くどいんだろうな。「これってこうなんだってよ」というだけで終われない。「なぜならば…」という話がしたくなってしまう。

でも私自身おじさんたちの話を聞いていると「勘弁してくれ」と思ってしまうこともあり、正直ジレンマを感じます。リアルでは出したくないんだよなぁ。

ジェンダーって

主婦の方のツイートとかを見ていて非常に申し訳なくなるのが

・夫はトイレットペーパーとか使い切っても補充しない

・夫はゴミ出しした後のペールに新しいゴミ袋をかけない

・夫は家事をしたとしても調理器具や掃除道具などをきれいにしまわない

的な愚痴です。

「男の人ってどうしてこうなの」「こういうの女の仕事だと思ってるんだよ。お子様かよ」「最後までちゃんとやらないくせに褒めてくれみたいな態度なんなの、こんなのやって当たり前でしょ」みたいな話に発展するのですが、

すみません。私のことですね。ごめんなさい。お子様です。

こういう方は私のこともきっと激しく軽蔑するのだろうなと非常に申し訳なくなります。

私は男性にも「だらしない奴だ」と思われるだろうレベルのアレなので、結婚はせず、なるだけ貯金しておいて最後はゴミ屋敷にならない程度にときどきハウスキーパーさんに来てもらいながら生涯を終えようというプランで生きております。(だらしない生活で体を壊して貯金を使い果たさなければいいんだけどね…医療保険も一応入ってるけど…)

おそらく妻の方は夫の「できないこと」そのものよりも「できないことを恥じずに居直って配偶者に一方的にやらせている態度」の方に腹をたてているのかな、とは想像できるのですが、自分的には「こんなもんやって当たり前じゃい!」と叱られている夫の居心地の悪さの方に強く共感してしまうのです。

もっと気をつけなさい、周囲に気を配りなさい、気が利かないね

そう言われ続けて生きてきましたので…気ってなんだよ!って心境。

でも、極端に気配りが苦手でその分幾何学的なことは(狭い田舎の学校の範囲では)得意な方だった私は「極力ジェンダーというものにはまらないやり方を見つけないと生きられないな」という方針を早々に打ち立てることができたように思います。

これが「他の女性も生きやすいように」とならなかったのは、男の人だって私よりは気配りができるのだから、社会全体の問題ととらえて「男女が同じように気配りをしたらいいじゃん」と主張しても私の生きづらさが減じるわけではないと思っていたからです。気配りしなくていい大人なんてこの世にいない。私が無能なことに変わりはない。
もしかしたら、私が女であることで男の同僚よりもそのことを責められやすい面はあったのかもしれないけど「私は隣の男子よりは気が利くのにどうして」と思えたことがなかった。その代わり、気が利かないといわれても「あなたより相手の説明内容を早く理解する自信はあるけどね!」と心の中で思えたから耐えられた部分はあったと思います。もちろん、こんな不遜な考え方は、表に出したりはしませんし(責められている状況でそんな反論は全くの無意味だし)、他人を攻撃することには決して使ってはならないのですが。優越感は、劣等感から自分の心を守る盾には使えると思います。

自分がいろいろの能力分布の外れの方にいるために、自分の状況を引き合いに出してのジェンダー論には正直無理があると思ってます。ただ、外れにいる人を除け者にしない寛容社会は実現してほしいと切実に思っているけれど。

でも、「自分のことは遠くの棚に放り投げて」ジェンダー論の本は読んだりしますし、普通の本の中にジェンダー観の出てくる部分は印象に残っていたりします。

以前ちょっとお話したハラリ氏の「サピエンス全史」の中にも「差別」を取り上げた箇所があります。性差別についても言及があり「生物学的特徴から男性の方が政治指導者に向いているというのは根拠のない偏見」としながら「例外的な女性リーダーを例に出しても、反論にはならない」とも話していました。その代わりにこんなことを言っています。「ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは歴史上最も優れた政治家の一人だが、生物学的に男性が女性より優れているとされる特徴のどれひとつとして彼には当てはまらない」。アウグストゥスという人は、病弱で、遠征などちょっと無茶するとすぐ寝込んでしまうという体質で、自分で指揮した戦争では勝てたためしがない(有能な将軍が部下にいただけ)。身長が低めなので上げ底のサンダルをはいていて、ただ美少年だったため若くしてカエサルの相続人に指名されたとき「彼は若輩者で家柄もたいしたことがない。きっと稚児だったのだ」と噂されたような人でした。しかし「男性らしい資質」も「女性だから大目にみる甘口採点」もなしに「歴史上最も優れた政治家」になれると証明した。政治的リーダーに必要な資質とは何なんだろうと考えさせる事柄です。

こういった例から「ある職業に必要とされる資質」について考え直すのはとても面白いですね。
理系の女性研究者が少ない理由についての本を読んだときも思いました。
こちらの本には、北米を中心に脳科学発達心理学などのさまざまな実験や研究報告が引用されていて、ちらっと見ただけで面白い報告も多数ありました。
特に面白いと思ったのが「数学の成績が同じくらい優れた男女のグループに、混乱するような課題(数学的な課題ではないらしい)を与えたところ、女性の方がより多く「何もできず自信喪失してしまった」」というもの。しかし、前向きさを失わなかった女性も少ないながら一定数いて、それぞれの女性に生まれや育ち、考え方などさまざまな角度からのアンケートをしたところはっきりとした差があらわれたというのです。それは「数学に必要なのは生まれつきの才能だ」と思っているか否か、だったというのです。男性の場合その考えの有無でそれほどはっきりした違いはあらわれないそうです。「数学の才能は生まれつきだ」と思っている「女性」だけが極端に自信喪失しやすいのだと。(なぜ男性だと自信を失いにくいかの分析はなかったですが、女性の自信のなさに関する本も日本語訳が出ているようなので、気が向いたら読んでみよう。)
続いてこの研究者さんは中学生くらいで数学が落ちこぼれ始めた子供たちに対し、補習前に「能力は後天的に伸ばせる」ということを示す科学的根拠のある情報(大人の脳のシナプスが学習によって新しい経路を形成していく映像)を見せるだけで補習の効果が格段に上がるという画期的研究成果を発表したとのこと。
ただし、これはアメリカでは画期的な発見だったのですが、こと数学に関して言えば、日本では「科学的に証明される前から違うやり方である程度できてたこと」だったようです。
国際学力調査の結果、アメリカでは数学の得点に男女で有意差があるが、日本やシンガポールでは男女差はずっと小さく、全体的にアメリカより平均点がずっといい。日本の女子とアメリカ男子の得点差の方がアメリカの男女の得点差よりはるかに大きかった。もし「男女の平均点の差は生まれつきの才能の差だ」というのなら「アジア人の方が生まれつき欧米人より数学の才能がある」という話になってしまうし、文化的背景の差だとしたらアメリカの男女差が生まれつきだという説だって否定可能なはずだ。
では、日本の教育文化は何が違ったかというと「数学の能力の差は『教え方のうまさ』で決まる、つまり『数学の能力はうまく教えればだいたいの子には身につく』と考えられている」ということらしいです。

アメリカがそうではなかった(少なくとも日本ほどではなかった)ということが若干驚きなのですが、日本の教育にはこれはこれで問題があります。「画一的」であることで、それにはまらない子たちが自信を喪失している。また、高校までの学力の格差こそ小さくても「(本格的な学問を含めた)職業教育」が絡んでくると深刻なジェンダーバイアスが存在すると明らかになっていますし。
嫌なことに対して努力を強いられる人にとっては「生まれつき」というのはある意味救いになる考え方です。できないことを際限なくがんばるなんて、絶望しかない。「向いていない」で済ませられることがどれだけありがたいことか。
ただ、「諦め癖」がつくことで、本当にやりたいことの達成を阻む「諸刃の剣」にもなりかねないんですね。

東京大学の入学式で上野千鶴子さんがマララ・ユスフザイさんのお父さんの言葉「娘の翼を折らないようにしてきた」を紹介し「諦めなくてよい環境に恵まれたことを自覚し世の中の弱い立場の人にそれを還元してほしい」旨を祝辞として伝えていました。上野さんの話は、こういう研究成果を踏まえたものだということを知るといっそう深みがありますね。

「向いてないからできない」より「したくないからやらない」を念頭に置いた方がいいのかなと思えてきますが、好き嫌いや興味関心さえ、社会的な環境の中で形成されるという考え方もあります。

私も「好きなものはご縁、巡りあわせで決まる」と思っているところがあります。よくファンがアイドルやアスリートなんかについての思い入れを述べる際に「同じ時代に生きていてよかった」という言い方をするのですが、そういう考え方もアリとは思うもののピンとこないのです。「たまたまの出会い」をいかに価値あるものにしていくかが人生なのであって、「たまたま出会ったものに価値があった。よかった」というのは違うと思うのです。世の中にはさまざまな価値があふれていて、一生で全てに触れられるわけじゃない。たまたま出会ったものが何であっても真剣に愛を注ぐしか私にはできない。視野を広げて新しいものを発見するのもよいものですが、それは「新しい何かを発見するということ」に価値を見出して愛を注いでいるということなのでしょう。そうではない何かにだって、真剣に愛すればやっぱり何物にも代えがたい価値が生まれるのだと思います。「あなたでよかった」という言葉を幸せに思う人もたくさんいますが、私は「たまたま出会った私に付き合ってくれてありがとう」で十分だなって思ってます。

それでも「意図的に視野を狭めるような外的な圧力」はないほうがいいんじゃないかなとは思います。あまりに選択肢が多い「どれでもいいや」状態もいい状態ではない気はするのですが、選択肢がないと「選び取る力」が育たないじゃないですか。
ここでいう「選び取る力」は「失敗せずにより価値の高い、正しいものを選び取る力」ではなくて「どうなるかはわからないがこの選択に責任と誇りを持とうと考える力」のことです。

選び取る力がないと、さまざまな巡りあわせで違うものを選び取った他人に対する想像力が働かなくなり、他者への尊重の気持ちも育たないんじゃないかって思います。「自分で選んだ」という自覚は、他人への嫉妬や認めたくない気持ち、憎しみを抑え込む力になるんじゃないかな。

 

非常に冗長なgdgdブログになってしまいましたが、こういう駄文こそ私の真骨頂という感じです。

これまではわりとワンテーマでコンパクトにまとまっていた方なんすよ…すみませんね。

暇が続けば少しは働きたくなるらしい

3日くらいならいくらでもぐうたらしていられる人間ですが、さすがに4日目になると「ちょっとくらい何かしないと腹も全く減らない、やばいのでは」となるし、5日目となると「暇だし家事でもして時間をつぶすか」という気持ちも生じてくるようです。

しかし「こういう気持ちが自然にわいてくるまで待つ」戦略は、それまでに浪費する時間を考えるとコストパフォーマンスは最悪といえましょう。ともあれ、人間というのはやはり「常に」ではなく「怠けることを欲するとき」怠けるのであって、どれほど怠け者であっても「働くことを欲するとき」というのがないわけではない、程度問題だということがわかります。日頃は怠けることを欲している時に怠けられない状態の苦しさが慢性化しているせいで「自分は働くことが嫌いなんだ」という自己認識になっているのでしょう。

とにかく現在私は自発的に掃除をして洗濯をしていい気分になっているという年に1度あるかないかのレアな精神状態にあります。

掃除というのはとにかく苦痛なのですが、最近そうでもなくなるグッズが家にやってきたのです。

それは「埃センサーつきコードレス掃除機」(アイリスオーヤマ)。

そんなもんで掃除の苦痛が和らぐのは、私にとっても非常に意外だったのですが、まあ経緯をお話しします。

これは父が買ってきたものです。私が階段の掃除をほうきでやってると階下に埃が落ちてくるのが嫌だったらしく「階段はこれを使え」と買ってきたのですが、私自身は嫌々やっている階段の掃きおろしにあれこれ指示だしされること自体が本当に不愉快で、「なんでお父さんは自分では使いもしないものを買ってきて私に押し付けるの!?」とプリプリしていました。
とにかく「掃除用具を工夫してみたら掃除が楽になるのでは」なんて、考えるのも苦痛なくらい掃除が嫌いなんです。

ですがまあ、買ってしまったものを使わないでおくのもなんなので、しぶしぶとりあえず2階の廊下を掃除機掛けしてみたところ「あ、これ埃センサーついてるんだ。埃がなくなると勝手に吸引しなくなるんだ」というのがわかったわけです。
この「埃がなくなると吸引しなくなる」というガジェットがなんでか私の心にヒットしたのです。

視力と注意力が低いせいなのでしょう、私は汚れを発見して取り除くということに苦手意識が強かったのです。それが、掃除機が勝手に判定してくれるので驚くほど気持ちが楽になり、埃を探知するゲーム感覚で掃除機掛けをするようになったのです。

掃除機掛け以前に片付けができないので、自室ではあんまりできないんですが、それでも「この片付け作業が終われば『掃除機で遊べる』!」という動機付けで多少がんばれている気がします。連休中は暇だったので私もこまめに整理をしていたのです。暇じゃなくなれば元の木阿弥になりそうな気がしますがまあそれはおいといて。

(まあ実際は4月に職場から持ち帰った未整理の段ボール箱に追加で自室内のどうしたらいいかわからないものを詰め込んでいるだけの状況で、あの箱を再び開くことだけは恐ろしくてできないでおります)

まあ、このように、昨今の一般人の皆様がルンバに丸投げしている作業にちょっとはまって部屋がきれいな状況なのが私です。いつまで続くかはわからないんですが…

これが今度はルンバを買って「ルンバに円滑に作業を進めてもらうための環境づくりゲーム」にハマることができれば1歩前進ということになるのかもしれません。まだそこまでの境地には達することができなさそうです。

このゲーム感覚掃除の難点なのですが…

普段あんまりに汚くしているもので、自室、2階、階段、1階と続けてやるとすぐに掃除機のバッテリーを使い切ってしまうのです。すると、使い切ったところで私のやる気も終了します。

充電のために休憩していたら母に「最後のそれくらいの埃ならおそうじシート使ってとっちゃいなさいよ」とツッコミ入れられて、頭では「まったくごもっとも」と思いながらも感情的には「それじゃつまんないじゃん」と非常にムッとしておりました。

自分が楽しくやる方法をなんとか編み出して、嫌々「ちゃんと」やるよりも不完全でも自主的にやりたいと今の私は思っているんですが、普通の人は「掃除は遊びじゃない」「やらなければならないこと」と思っているわけで(しかも私は経験上そう考えると全く掃除ができなくなるわけで)、そこのところの折り合いが全然つかないです。10点が40点になって自分では満足していても周囲から「100点とはいわないけど70点はとりなさいよ」と言われる。

でも、10点だった頃の自分を自分だけは覚えていてやって、「40点もとれるようになったなんて成長したな」と自分に言い聞かせてやろうと思います。

手続きはめんどくさくて嫌いだけど「面倒な手続きは不要です!」はうさんくさいよね

時代の変化についていくのがつらいです。

新しいことをやろうとするとき、そこに付随する「手続き」というのが心底つらい。窓口の方はみな親切で「わからない」という悩みにも丁寧に応じてくれます。それはわかっているのだけれど、こっちにその説明を最後まで聞く根性がない。あまりにもいろんなことを想定しすぎているので「とりあえずこれだけ使いたいんですけど、そんなことまで把握しておかないとダメなのですか」となってくる。
相手の方は「大丈夫ですよ。とりあえず今はこれだけ確認いただければいいですので、他のことは必要があったら相談くださいね」という感じで答えてくれるわけですが、「不用意に必要を生じさせてしまったらどうしよう」という不安がもくもくと湧いてきて、新しいことを始めるわくわく感より暗澹たる気持ちの方が強くなってくる。

その一方で「ネットで簡単に申込できます!」というのも、絶対に罠があると勘ぐってしまう。世の中がそんなに簡単なはずはないのです。安易に何かやっても面倒なことというのは後から必ずやってくるのです。

 

私がこんな風なのは「自分に対して信用がない」からなのだろうなと思います。

仕事とか商売とか取引というのは何事も「信用」で成り立っています。ただ漠然とした信用では扱い難いので、もっと簡便で広範に利用できる形態として長らく「通貨」というものが使用されていましたが、やはり高度な、あるいは高額な取引には「信用」が欠かせません。「私はあなたの仕事に対価を払いますよ」「私は対価に見合う仕事をしますよ」「私は借りたものはきちんと利子付けて返しますよ」「私は預ったものをなくしたりしませんよ」「私は最後まで契約を履行しますよ」というのを相手に受け入れてもらうことが「信用」です。
高額な対価を分割払いで払い続けるとうっかり忘れてしまうことがあったりローン返済が滞ったり、他人の物をなくしたり、仕事がちゃんとしていなかったり、長期の仕事が完遂できなかったりする人は、受け入れてもらえる「信用」がない、ということになる。私は私を信用していないので、特に長期にわたる契約や後払いというのには気後れしてしまいます。その場で現金決済というのが一番気楽。
ネットでの取引もプリペイド電子マネーをコンビニで買ってきてちまちまやるのが一番気楽で、そうでなければコンビニで支払いが終わったら商品が提供されるやつ。「後から払うもの」は極力使わないし、先払いでは不安だとちょっとでも感じるような取引は絶対にしない。私が払えるごくわずかな「信用」を超える取引はしたくない。まして相手の信用を自分の目で見極めるなんてできない。

ADHDの人々がこの社会で生きづらいのは人間社会が基本的に信用社会であり、さらには時代が進むにつれ何重にも「価値の変換」を施した「高度な」信用社会になってきているからなのかなぁという気がします。その場その場の取引だけではどうしても済まない。周囲の持つ欲望に鈍感でいられるならそれでもいいし、ASD傾向が混ざってる人ならそういう人もいるのでしょうが、たいがいは普通に「いいな、うらやましいな」と思ってしまう。また、社会のニーズが変化すればメーカー側も古いものは提供しなくなってしまい、否応なしに新しいものの消費を強いられるようになることもあるわけです。

さすがに、人間社会の外では生きていけない以上「信用がなくてもいいじゃないか」とはいえない。

いかに自分の制御の及ぶ範囲で信用を構築し守っていくか。大人というのはある意味身の丈に合った「信用」をきちんと構築できている人なのでしょうね。

あーあ、大人になれないなぁ。

字が曲がるのは心が曲がってるからなのか?

手先があまり器用ではないのですが、特に苦手意識を感じているのは「手先」の問題というより「目分量」ができないという問題です。

余白の大きさとかをうまくはかることができません。

以前「自動車学校の適性試験で判断が遅いという結果が出た」という話をちらりとしたのですが、何をやったかというと「制限時間内に見本の形とだいたい同じと判断したもの、違うと判断したものに分けていく」という課題で、実際には誤差の範囲みたいにほんの少しずつ形が違うものがいっぱいあるのです。多少違っていてもできるだけたくさんのものを見分けていかなければならないのですが、私はどこまで同じ形と考えたらいいのか本気で判断つかなくなって、数をこなせなかったんです。

角印をつくときも、紙や行に対してほぼ必ず斜めについてしまいます。

字を書く時も、意識すればするほど文字の大きさや間隔がバラバラになり、行が曲がってしまいます。

「遠くから掲示物が斜めになってないか見てほしい」と言われて「だいたいいいと思います」と答えると、後から「曲がってんじゃねーか」と怒られます。

なので、私はちょっとしたことにも定規を使わないではいられません。そうすると几帳面だと言われてしまうのですが、「使わないでやったら3倍時間かけても『雑』って言われる仕事しかできないから仕方なくやってんだよ私だって使いたくねーよ!」って思っています。

しかし、手書きの字に対して鉛筆でガイドラインを引いておいて後で消しゴムで消すとかは、汚す可能性もあってめんどくさすぎてしていません。いつも「ああ…ひどい字だ…バランスがひどい…」と思いながらそのままにしています。

数人分の料理をそれぞれの皿に盛り付けるときも、少しずつ少しずつ盛り付けて周りをイライラさせるのですが、そうしないと均等に盛り付けることができないのです。

まあ、知能検査の処理速度検査にはそういうアナログな作業はないので、処理速度が低い=とろいことはこれとはまた別の問題である可能性は高いんですが、これが日常生活のとろさに拍車をかけている(変な表現だ)のは確かです。
とにかく「程度」というものに対して鈍感なのがいつもコンプレックスになっています。

これって何なんだろうといつも落ち込みます。

しかし、多少思い当たる節がないでもない。

私は乱視なのですが、子供のころ家族に「なんでそんな斜めにものを見るの」と言われていたことがありました。私は全く意識していなかったのですが、顔を正面に向けないで斜めにし、視線だけを見たいものの方向に向ける癖があったのです。正面を見るよりそれが楽だった。
それで眼鏡を作ったのですが、それこそ免許をとって車を運転するようになるまで、眼鏡というものは煩わしくよほど必要を感じないとかけないで過ごしていた。高校時代検診で視力がかなり悪化していると言われて新しい眼鏡が必要になり眼科で処方箋をお願いしたら「これで授業受けてたの?黒板の字読めてたの?」と眼科医に驚かれてしまいました。(なんとなく見づらいなぁとは思ってはいたんですが、授業に対してあまり真剣でなかったので「見えなくて困る」という切迫感を感じていなかったのですよ…)

乱視の眼鏡は目の形のゆがみを逆方向に矯正するため、縦横の屈折率が違います。それで人によっては見たものの縦横の比率が実際と違って見えるんです。私は斜乱視といってゆがみの軸が縦横ではなくて斜めになっているので、左目は左上から右下方向が圧縮され、右目は右上から左下方向が圧縮されるというレンズを使用しております。(この斜め具合も左右の目で角度が違うそうな)

斜乱視の人の脳が眼鏡に慣れてくると、視覚処理をするところで、斜めにゆがんだ像を「これはまっすぐなんだよ」というふうに無意識にフィルターかけて修正するようになります。(緑内障などで視野が欠けていても同様のフィルターが欠けたところを勝手に補うので、視野が欠けているとすぐに気付かないことはよく知られています)

その脳のはたらきが「本当に斜めであっても」「まっすぐだ」というフィルターをかけてしまうんではないだろうか、と妄想したりします。今の私は子どものころに見ていた世界と違う形の世界を見ているわけで…

まあ、ともあれ、「誰かが仕事の過程で神経質すぎるように見える手順をとっている場合、その人は本当はそれに死ぬほど苦手意識を感じており、何気なく『いい(良い)加減』にできていることの方がむしろ得意なのかもしれない」ことはみなさんも頭にいれていただけるといいかなーと思います。

ちょっとしたことが穴ぼこのように極端に苦手な人って、いるんですよ…