休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

字が曲がるのは心が曲がってるからなのか?

手先があまり器用ではないのですが、特に苦手意識を感じているのは「手先」の問題というより「目分量」ができないという問題です。

余白の大きさとかをうまくはかることができません。

以前「自動車学校の適性試験で判断が遅いという結果が出た」という話をちらりとしたのですが、何をやったかというと「制限時間内に見本の形とだいたい同じと判断したもの、違うと判断したものに分けていく」という課題で、実際には誤差の範囲みたいにほんの少しずつ形が違うものがいっぱいあるのです。多少違っていてもできるだけたくさんのものを見分けていかなければならないのですが、私はどこまで同じ形と考えたらいいのか本気で判断つかなくなって、数をこなせなかったんです。

角印をつくときも、紙や行に対してほぼ必ず斜めについてしまいます。

字を書く時も、意識すればするほど文字の大きさや間隔がバラバラになり、行が曲がってしまいます。

「遠くから掲示物が斜めになってないか見てほしい」と言われて「だいたいいいと思います」と答えると、後から「曲がってんじゃねーか」と怒られます。

なので、私はちょっとしたことにも定規を使わないではいられません。そうすると几帳面だと言われてしまうのですが、「使わないでやったら3倍時間かけても『雑』って言われる仕事しかできないから仕方なくやってんだよ私だって使いたくねーよ!」って思っています。

しかし、手書きの字に対して鉛筆でガイドラインを引いておいて後で消しゴムで消すとかは、汚す可能性もあってめんどくさすぎてしていません。いつも「ああ…ひどい字だ…バランスがひどい…」と思いながらそのままにしています。

数人分の料理をそれぞれの皿に盛り付けるときも、少しずつ少しずつ盛り付けて周りをイライラさせるのですが、そうしないと均等に盛り付けることができないのです。

まあ、知能検査の処理速度検査にはそういうアナログな作業はないので、処理速度が低い=とろいことはこれとはまた別の問題である可能性は高いんですが、これが日常生活のとろさに拍車をかけている(変な表現だ)のは確かです。
とにかく「程度」というものに対して鈍感なのがいつもコンプレックスになっています。

これって何なんだろうといつも落ち込みます。

しかし、多少思い当たる節がないでもない。

私は乱視なのですが、子供のころ家族に「なんでそんな斜めにものを見るの」と言われていたことがありました。私は全く意識していなかったのですが、顔を正面に向けないで斜めにし、視線だけを見たいものの方向に向ける癖があったのです。正面を見るよりそれが楽だった。
それで眼鏡を作ったのですが、それこそ免許をとって車を運転するようになるまで、眼鏡というものは煩わしくよほど必要を感じないとかけないで過ごしていた。高校時代検診で視力がかなり悪化していると言われて新しい眼鏡が必要になり眼科で処方箋をお願いしたら「これで授業受けてたの?黒板の字読めてたの?」と眼科医に驚かれてしまいました。(なんとなく見づらいなぁとは思ってはいたんですが、授業に対してあまり真剣でなかったので「見えなくて困る」という切迫感を感じていなかったのですよ…)

乱視の眼鏡は目の形のゆがみを逆方向に矯正するため、縦横の屈折率が違います。それで人によっては見たものの縦横の比率が実際と違って見えるんです。私は斜乱視といってゆがみの軸が縦横ではなくて斜めになっているので、左目は左上から右下方向が圧縮され、右目は右上から左下方向が圧縮されるというレンズを使用しております。(この斜め具合も左右の目で角度が違うそうな)

斜乱視の人の脳が眼鏡に慣れてくると、視覚処理をするところで、斜めにゆがんだ像を「これはまっすぐなんだよ」というふうに無意識にフィルターかけて修正するようになります。(緑内障などで視野が欠けていても同様のフィルターが欠けたところを勝手に補うので、視野が欠けているとすぐに気付かないことはよく知られています)

その脳のはたらきが「本当に斜めであっても」「まっすぐだ」というフィルターをかけてしまうんではないだろうか、と妄想したりします。今の私は子どものころに見ていた世界と違う形の世界を見ているわけで…

まあ、ともあれ、「誰かが仕事の過程で神経質すぎるように見える手順をとっている場合、その人は本当はそれに死ぬほど苦手意識を感じており、何気なく『いい(良い)加減』にできていることの方がむしろ得意なのかもしれない」ことはみなさんも頭にいれていただけるといいかなーと思います。

ちょっとしたことが穴ぼこのように極端に苦手な人って、いるんですよ…