休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

ジェンダーって

主婦の方のツイートとかを見ていて非常に申し訳なくなるのが

・夫はトイレットペーパーとか使い切っても補充しない

・夫はゴミ出しした後のペールに新しいゴミ袋をかけない

・夫は家事をしたとしても調理器具や掃除道具などをきれいにしまわない

的な愚痴です。

「男の人ってどうしてこうなの」「こういうの女の仕事だと思ってるんだよ。お子様かよ」「最後までちゃんとやらないくせに褒めてくれみたいな態度なんなの、こんなのやって当たり前でしょ」みたいな話に発展するのですが、

すみません。私のことですね。ごめんなさい。お子様です。

こういう方は私のこともきっと激しく軽蔑するのだろうなと非常に申し訳なくなります。

私は男性にも「だらしない奴だ」と思われるだろうレベルのアレなので、結婚はせず、なるだけ貯金しておいて最後はゴミ屋敷にならない程度にときどきハウスキーパーさんに来てもらいながら生涯を終えようというプランで生きております。(だらしない生活で体を壊して貯金を使い果たさなければいいんだけどね…医療保険も一応入ってるけど…)

おそらく妻の方は夫の「できないこと」そのものよりも「できないことを恥じずに居直って配偶者に一方的にやらせている態度」の方に腹をたてているのかな、とは想像できるのですが、自分的には「こんなもんやって当たり前じゃい!」と叱られている夫の居心地の悪さの方に強く共感してしまうのです。

もっと気をつけなさい、周囲に気を配りなさい、気が利かないね

そう言われ続けて生きてきましたので…気ってなんだよ!って心境。

でも、極端に気配りが苦手でその分幾何学的なことは(狭い田舎の学校の範囲では)得意な方だった私は「極力ジェンダーというものにはまらないやり方を見つけないと生きられないな」という方針を早々に打ち立てることができたように思います。

これが「他の女性も生きやすいように」とならなかったのは、男の人だって私よりは気配りができるのだから、社会全体の問題ととらえて「男女が同じように気配りをしたらいいじゃん」と主張しても私の生きづらさが減じるわけではないと思っていたからです。気配りしなくていい大人なんてこの世にいない。私が無能なことに変わりはない。
もしかしたら、私が女であることで男の同僚よりもそのことを責められやすい面はあったのかもしれないけど「私は隣の男子よりは気が利くのにどうして」と思えたことがなかった。その代わり、気が利かないといわれても「あなたより相手の説明内容を早く理解する自信はあるけどね!」と心の中で思えたから耐えられた部分はあったと思います。もちろん、こんな不遜な考え方は、表に出したりはしませんし(責められている状況でそんな反論は全くの無意味だし)、他人を攻撃することには決して使ってはならないのですが。優越感は、劣等感から自分の心を守る盾には使えると思います。

自分がいろいろの能力分布の外れの方にいるために、自分の状況を引き合いに出してのジェンダー論には正直無理があると思ってます。ただ、外れにいる人を除け者にしない寛容社会は実現してほしいと切実に思っているけれど。

でも、「自分のことは遠くの棚に放り投げて」ジェンダー論の本は読んだりしますし、普通の本の中にジェンダー観の出てくる部分は印象に残っていたりします。

以前ちょっとお話したハラリ氏の「サピエンス全史」の中にも「差別」を取り上げた箇所があります。性差別についても言及があり「生物学的特徴から男性の方が政治指導者に向いているというのは根拠のない偏見」としながら「例外的な女性リーダーを例に出しても、反論にはならない」とも話していました。その代わりにこんなことを言っています。「ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは歴史上最も優れた政治家の一人だが、生物学的に男性が女性より優れているとされる特徴のどれひとつとして彼には当てはまらない」。アウグストゥスという人は、病弱で、遠征などちょっと無茶するとすぐ寝込んでしまうという体質で、自分で指揮した戦争では勝てたためしがない(有能な将軍が部下にいただけ)。身長が低めなので上げ底のサンダルをはいていて、ただ美少年だったため若くしてカエサルの相続人に指名されたとき「彼は若輩者で家柄もたいしたことがない。きっと稚児だったのだ」と噂されたような人でした。しかし「男性らしい資質」も「女性だから大目にみる甘口採点」もなしに「歴史上最も優れた政治家」になれると証明した。政治的リーダーに必要な資質とは何なんだろうと考えさせる事柄です。

こういった例から「ある職業に必要とされる資質」について考え直すのはとても面白いですね。
理系の女性研究者が少ない理由についての本を読んだときも思いました。
こちらの本には、北米を中心に脳科学発達心理学などのさまざまな実験や研究報告が引用されていて、ちらっと見ただけで面白い報告も多数ありました。
特に面白いと思ったのが「数学の成績が同じくらい優れた男女のグループに、混乱するような課題(数学的な課題ではないらしい)を与えたところ、女性の方がより多く「何もできず自信喪失してしまった」」というもの。しかし、前向きさを失わなかった女性も少ないながら一定数いて、それぞれの女性に生まれや育ち、考え方などさまざまな角度からのアンケートをしたところはっきりとした差があらわれたというのです。それは「数学に必要なのは生まれつきの才能だ」と思っているか否か、だったというのです。男性の場合その考えの有無でそれほどはっきりした違いはあらわれないそうです。「数学の才能は生まれつきだ」と思っている「女性」だけが極端に自信喪失しやすいのだと。(なぜ男性だと自信を失いにくいかの分析はなかったですが、女性の自信のなさに関する本も日本語訳が出ているようなので、気が向いたら読んでみよう。)
続いてこの研究者さんは中学生くらいで数学が落ちこぼれ始めた子供たちに対し、補習前に「能力は後天的に伸ばせる」ということを示す科学的根拠のある情報(大人の脳のシナプスが学習によって新しい経路を形成していく映像)を見せるだけで補習の効果が格段に上がるという画期的研究成果を発表したとのこと。
ただし、これはアメリカでは画期的な発見だったのですが、こと数学に関して言えば、日本では「科学的に証明される前から違うやり方である程度できてたこと」だったようです。
国際学力調査の結果、アメリカでは数学の得点に男女で有意差があるが、日本やシンガポールでは男女差はずっと小さく、全体的にアメリカより平均点がずっといい。日本の女子とアメリカ男子の得点差の方がアメリカの男女の得点差よりはるかに大きかった。もし「男女の平均点の差は生まれつきの才能の差だ」というのなら「アジア人の方が生まれつき欧米人より数学の才能がある」という話になってしまうし、文化的背景の差だとしたらアメリカの男女差が生まれつきだという説だって否定可能なはずだ。
では、日本の教育文化は何が違ったかというと「数学の能力の差は『教え方のうまさ』で決まる、つまり『数学の能力はうまく教えればだいたいの子には身につく』と考えられている」ということらしいです。

アメリカがそうではなかった(少なくとも日本ほどではなかった)ということが若干驚きなのですが、日本の教育にはこれはこれで問題があります。「画一的」であることで、それにはまらない子たちが自信を喪失している。また、高校までの学力の格差こそ小さくても「(本格的な学問を含めた)職業教育」が絡んでくると深刻なジェンダーバイアスが存在すると明らかになっていますし。
嫌なことに対して努力を強いられる人にとっては「生まれつき」というのはある意味救いになる考え方です。できないことを際限なくがんばるなんて、絶望しかない。「向いていない」で済ませられることがどれだけありがたいことか。
ただ、「諦め癖」がつくことで、本当にやりたいことの達成を阻む「諸刃の剣」にもなりかねないんですね。

東京大学の入学式で上野千鶴子さんがマララ・ユスフザイさんのお父さんの言葉「娘の翼を折らないようにしてきた」を紹介し「諦めなくてよい環境に恵まれたことを自覚し世の中の弱い立場の人にそれを還元してほしい」旨を祝辞として伝えていました。上野さんの話は、こういう研究成果を踏まえたものだということを知るといっそう深みがありますね。

「向いてないからできない」より「したくないからやらない」を念頭に置いた方がいいのかなと思えてきますが、好き嫌いや興味関心さえ、社会的な環境の中で形成されるという考え方もあります。

私も「好きなものはご縁、巡りあわせで決まる」と思っているところがあります。よくファンがアイドルやアスリートなんかについての思い入れを述べる際に「同じ時代に生きていてよかった」という言い方をするのですが、そういう考え方もアリとは思うもののピンとこないのです。「たまたまの出会い」をいかに価値あるものにしていくかが人生なのであって、「たまたま出会ったものに価値があった。よかった」というのは違うと思うのです。世の中にはさまざまな価値があふれていて、一生で全てに触れられるわけじゃない。たまたま出会ったものが何であっても真剣に愛を注ぐしか私にはできない。視野を広げて新しいものを発見するのもよいものですが、それは「新しい何かを発見するということ」に価値を見出して愛を注いでいるということなのでしょう。そうではない何かにだって、真剣に愛すればやっぱり何物にも代えがたい価値が生まれるのだと思います。「あなたでよかった」という言葉を幸せに思う人もたくさんいますが、私は「たまたま出会った私に付き合ってくれてありがとう」で十分だなって思ってます。

それでも「意図的に視野を狭めるような外的な圧力」はないほうがいいんじゃないかなとは思います。あまりに選択肢が多い「どれでもいいや」状態もいい状態ではない気はするのですが、選択肢がないと「選び取る力」が育たないじゃないですか。
ここでいう「選び取る力」は「失敗せずにより価値の高い、正しいものを選び取る力」ではなくて「どうなるかはわからないがこの選択に責任と誇りを持とうと考える力」のことです。

選び取る力がないと、さまざまな巡りあわせで違うものを選び取った他人に対する想像力が働かなくなり、他者への尊重の気持ちも育たないんじゃないかって思います。「自分で選んだ」という自覚は、他人への嫉妬や認めたくない気持ち、憎しみを抑え込む力になるんじゃないかな。

 

非常に冗長なgdgdブログになってしまいましたが、こういう駄文こそ私の真骨頂という感じです。

これまではわりとワンテーマでコンパクトにまとまっていた方なんすよ…すみませんね。