休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

片付けとは永劫回帰である

片付けという行為をしているといつも思う。

「どうせまた散らかるのに」

「どうせ」という言葉には一種のニヒリズムが漂っている。私のしようとしていることは無意味なのだろうという予測がそう言わせる。

片付けは無意味ではないのだが、意味の有効期限が短い。間もなく効果は切れて、再び同じことをしなければならなくなってしまう。私にはそれが心底苦痛なのだけれど、そんなことは屁理屈でしかないこともまあよくわかっている。

食事だって効果がすぐに切れて再び食べなければならないが、それが面倒という人はいない。料理はまあ、別だけど。また私は個人的に、入浴ならそこまでめんどくさいという感覚が生じない。音楽を聴いたりテレビを見たり、ゲームをやったりも、あまり繰り返せばやっぱり飽きはするのだけれど、ある程度の繰り返しには耐えることができる。

ニヒリズムを究めたニーチェの「永劫回帰」という思想はまあそういうことで、「この行為が私を一つ上のステージに前進させてくれるのだ」と信じて、いわば「功徳を積めば」「いつか解脱できる」と期待してやってても期待通りになんてまあならないので、繰り返すことそのものを愛し楽しむようになるしかないというような話だ。この思想そのものにはそれなりに批判もあるようなのだけど、一面ではやはり真理だよなーと、片付けをすると思うのです。

バカの壁」で有名な養老孟司先生の本の中で「休まずずっと生産活動を続けることはできない。状態を回復させるための時間が必ず必要で、掃除や片付けというのはそういう時間だ。そういう時間を軽んじてはならない。」という話が出てきた記憶があります。何の本だったかは忘れちゃった。生産活動とはすなわち散らかす活動だし、実は黙っていても宇宙は散らかっていくようにできているので、整頓して片づけて生産できる状態に回復してやらないと生産を続けられない、というわけ。人も食事して発散してしまったエネルギーを蓄え直す必要があるし、睡眠して記憶を整理する必要があるわけですが、場所も同様に「整然さ」を蓄え直す必要がある。そう、「整然としている」のが生産活動に適した高エネルギーな状態で「散らかっている」のは低エネルギーな状態、という解釈だとすっきりするかもしれない。給油する、補充する、と同じように「片づける」を位置づけなければならない。

しかし、その養老先生のお話を読んだときに思ったのが「これはシーシュポスの神話だな」だったわけです。

シーシュポスは岩を山の頂まで押し上げる。岩は山を転がり落ちる。再び岩を山の頂まで押し上げる。岩は再び転がり落ちる。そんなイメージ。
まあ、実際には岩が転がり落ちてるんじゃなく、生産活動がなされているのだから、まあせいぜい滑り台をするために何度でも飽きずに階段を上がっていく子供くらいが適切でしょう。そう思えないのは、生産活動が滑り台ほど楽しいと思えていないか、階段をとんとん上がっていくスムーズさではなく岩を押し上げるような苦痛をそこに感じているか、ということなのかなと思います。

どうしたらこの苦痛が和らぐのか、どうしたら滑り落ちることを楽しいと思えるのか。永劫回帰を受け入れる超人のようにならなければいけない、などと、やたら大げさな考えを巡らせてしまう、そんな人間なんですよ私は。