休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

年度末に仕事のユニバーサルデザインとか愚考していたという話

仕事の担当が変わることになり、非常にどたばたしています。

普段いろいろ二の次になっていたことが「これを終わらせておかないと次の人に渡せない」という状況に…。
本当に「きちんと仕事する」ことができないなぁと実感しています。また、どこまで前もって仕事の進め方を次の方に伝えておくのかも悩みます。私はかなり説明がくどい人間で、要点をかいつまんで伝えるということが苦手です。聞かれたら教えればいいかとも思うんですが、他人がやってないようなへんてこな仕事の痕跡を残していくので「なんだこりゃ」といろんな場面で思われてしまうのだろうなと不安なんだと思います。

当たり前の手順ではうまくできないので自分なりの手順で進めてきたことがたくさんあります。普段その手順をいちいち周囲の人に説明することはありません。自分の中でいかに合理的な手順だろうと、それは他人と同じようにできないから苦肉の策でそうしたのであって、積極的にオープンにしていくことは後ろめたいのです。きっと「かえってややこしい、いらない手順だ」と言われてしまうんだろうなと。でも引継ぎをする人は何の説明も受けずにその手順ですすめた仕事の痕跡を見てしまうことになるので、困惑するのではないかという気持ちがあります。

誰がやっても同じようにできる、仕事の均質化、手順の共有を図っておくことは、組織のマネジメントとして重要なことだと思います。

知的障害者の雇用で先駆的な業績を残した有名なチョーク工場では「知的障害者が理解できる仕事の手順」への見直しを徹底したところ健常者の仕事のエラーも減って品質が向上し全体の作業スピードも上がるなどの効率化を図ることができた、といいます。
具体的には、たとえば材料は一目でわかる容器に入れておくこと。「石灰を○グラムに○○を○グラム…」ではなく「赤い缶の粉をこの赤いバケツに1杯、青い缶の粉はこの青いバケツに1杯」と説明すれば間違えない。後は検品の時にノギスで寸法を測るのではなく「太めの溝」と「細めの溝」を用意しておいて、「太めの溝を通らないチョークと細めの溝を通ったチョークはだめ、太めの溝は通るけど細めの溝は通らないチョークはOK」というようなやり方にしたのだそうです。ちょっとしたことなんですが、それが仕事の質を改善させたんですね。

その事例を考えると、私のやっていることは若干それとは真逆の方向に行っている気がします。

もしかしたら、他の誰かが私が苦心して編み出した手順を「こりゃいい」と思ってくれて、ひそかにそれが広まったりしてくれたら、私がここで仕事している意味がひとつでも増えるのかななんて思いもします。

思うだけで、提案できないのは、もしかしたら自分が「知的障害者に健常者の手順を押し付ける」類の愚を犯そうとしているのかもしれないとふと思うことがあるからです。(それを実際にやって確かめてみないのは、臆病だからかもしれません。最近病気で亡くなった何年か前の上司が、却下された私の拙い提案に対して「それが通らないとしても「こうした方がいい」と言ってみるのはいいことだよ。気を落とさないで」と言ってくれたのを思い出しました。せっかく言っていただいたことを生かせてないなぁなどと)

学校の勉強はあまり頑張らなくてもできたのですが、だから「頑張ってもできない」人の認知のあり方が私にはよくわからない。
でも仕事はそういう人ができるものでなければならないと思います。

ただ、将来はそうともいいきれないのかもしれない。

「サピエンス全史」というベストセラー本を書いたハラリという歴史学者は、将来の人類史を予測する「ホモ・デウス」というこれまたベストセラー本で、AIが人に勝る点を「一度方法論が確立できてしまえば容易に複製可能」である点と述べています。半導体からハードを組み上げていったって、ひとりの人間を高度な技術を持つ一人前のプロフェッショナルに育て上げるほどの労力も時間もかからない、というのです。そうなったら、標準化できる仕事に固執する人間から彼が最悪の未来として予測している「無用者階級」に落ちていくのかもしれない。(彼は「技術が確立した時点で豊かな人間から自分や子供をバイオテクノロジーで進化させて超人的存在になるので、そういう資本のない貧しい人間に勝ち目はなくなる」というようなことも言っており、「無用者階級」になるのは進化できなかった人たちというのが本旨なんですけどね。)

そういったところで、今の社会で「標準化できないような仕事をするべき」ということにあまり意味があるようにも思えない。「標準化できない」とは「誰もができない」ということであり、ならば必然的に「できない人」はいる。よしんば誰もが自分だけのオンリーワンのアイデアを持っていたと仮定しても、社会で共有できないことは社会の価値、つまり仕事にはなりえない。たまたま「社会で価値を共有できる」「誰もができない」ことができるという幸運に与った人間だけが、それをできるんです。しかも、標準化できない仕事が「社会に必要とされた」ら、それをできる人を失った社会はどうなるのでしょう。本当に必要なことは、やっぱり、朝ドラのモデルになった安藤百福が言った「大樹ではなく森を育てる」ように誰もができる形で普及させなければならないのです。
いずれ「オンリーワンの仕事」ができない人を社会が置き去りにしていいと考えることは、私にはできません。自分自身そんなものができる自信がありませんし。彼ら、あるいは私たち自身をどうやって価値ある存在として未来に連れていくかを真剣に考えなければならないと思います。

まあ、しかしそれはちょっと手ごわすぎる課題なので、めんどくさがりの私はとりあえず「それが仕事になるかどうかはさておき、好きなことを積極的にできる自分を保っておくことは大事かもね」というだけにとどめておきたいと思います。

しかし今年度中に整理しなきゃない私の業務用PCの中身はまだグッチャグチャなのに、こんな時間にブログなんて書いてて大丈夫なのか?