休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

何をやっても長続きはしないが、さして悩んではいない

今日は『「何をやっても長続きしない人」の悩みがなくなる本』(石原加受子 著)という本を書店で見つけたので、ブログで書いていたネタとちょっとかぶるなーと思って読んでみました。

いや、さして悩んではいないのですが 、やっぱり「長続きした方がいい」とは思うので。


www.amazon.co.著者はカウンセラーさんです。読みやすく書かれていてポイントもまとめてあります。

多分私の記事を読むより直接kindleなどで読んでいただいた方が早いのではないかと…

ざっくりまとめると「長続きしなくていいじゃん」ということです。

「なんでか」ということをもう少し紐解くと

「長続き『させなければならない』という考え方は、完璧主義や虚栄心、他人から否定されることの恐怖から発しているものであり、自分が純粋にしていることに対して感じている思いや気持ちが入っていない。そこには何の喜びもないため、自分の心に対して害しかもたらさない。『したくないからしない』という気持ちを否定する必要はない」

ということのようです。そのうえで物事の捉え方を変えて、していることに喜びを感じられるようになれば自然と続けられるようになるのだと説きます。
やってみて「面白くない」と思ったことはきっぱりやめて「やめてよかった」と思えばよいというのがこの本の基本的スタンスですが、「面白いかも」と感じたことを長続きさせる方法についてはもう少し具体的なコツも書かれています。気になる方は本を読んでみてもいいかもしれません。「なるほど~」と思いました。(わかったところでできるかどうかは定かではない)

「続けること」については、先日話題にした「永劫回帰」の話にもちょっぴりかぶるかもしれないです。
さらに「続けないこと」も立派に肯定的な選択肢たりうるという点に気付きがありました。よく科学者で「実験がうまくいかなかったら「この方法は違うということがわかった」という成果が得られる。別に失敗ではない」というようなことを言う人がいますが、何かを続けることだって同じなわけですね。

そうだねそうだねと思いながら読んではいたのですが、対面でのカウンセリングとは違い本であることの限界も多少は感じるところがあります。

多分この本の対象である自己肯定感が低い人で「多少自覚がある人」が読むと結構グサグサとくる部分があります。そのときネガティブに向かう気持ちのブレーキをあらかじめ用意するのは難しい感じがします。

「自分を感じる力が弱い」「未熟」「低い」という言い方がちょいちょい出てきます。また、人間関係の章では「他人からの見られ方を気にする割に他人をないがしろにする言動がみられる」「怒るようなことではない誤りを指摘する勇気がなく溜め込むうちに言えない不満が怒りになり、相手を否定し傷つけるような言い方をしてしまう」という指摘が出てきます。それはまさにそのとおりなだけに「グサリ」ときます。

自己肯定感の低い人は多分「じゃあどうやって自分を感じる力を高めることができるのか」とか「自分を大切にすると徐々に他人にも優しくなれるのかな」「気になったことを溜め込まず傷つけないように指摘できる勇気を持とう」と思う以前に「やっぱり私はダメなんだ」と思ってしまうのではないかと、感じました。よく精神科医斎藤環先生が引きこもりの傾向として「自分が成長できると信じていない」と述べているのですが、そういう人だと「弱い」「未熟」という言葉から「向上の余地がある」というポジティブな発想をそもそも抱けないのではと思います。私も多分にそういう傾向があるだけに、想像できてしまいます。
カウンセリングならそういう人の生の反応を受け止めたうえで、もう一度ポジティブな言葉を「直に、その人に向けて」発してあげることができるわけですが、不特定多数に向けて書かれた本では、そういう欠点の指摘は「自分のことを言い当てられた」と思うのに、後に続く肯定的な言葉は「どうせ自分に対して言っているのではない」あるいは「自分にはできそうもない」と感じてしまうのではないかな、なんて思ってしまい。この本に書かれている「自己肯定感の低い人の認知傾向」をそのまま当てはめれば必然的にそうなるわけです。こればっかりは、本なのだからどうしようもないことなのかな、とは思うのですが。

また、虚栄心や誰かから感謝されたい、ほめられたいという気持ちもまた否定されていいものではないはずです。いわゆる「承認欲求」というやつですが、これをむやみに否定することもまた自己否定だと思っておりまして。
まあいかなる欲求に対しても「貪」であっていいわけではなく、いかにして「節度」を身に着けコントロールしていくかということは重要です。自己肯定感の低い人は「自己実現欲求」はがっちり封印しているのに対して「承認欲求」に対しては無自覚に貪欲だから、まず自己実現欲求を徐々に解放して、そっちにフォーカスすることでバランスを整えていこうという考え方は正しいのだと思うのですが、何しろそういう人ってバランス感覚が完全にぶっこわれている。だから、この本を読んで感じることは「他人に認められたいと思うのはいけないことなんだ」になってしまいかねないと思うのです。
論理的に冷静に読めば「他人に認められたい」という気持ちもまた「自分が感じていること」のひとつなのでむやみに否定しなくてよいのだとわかるとは思うのですが、最初の感覚としては非常に「否定された」感覚が強かった。それが正直な感想。

ただ、それは私が実際のところ「真に徹底的な自己否定」のステージにはないからなのかもしれない。本当に自己肯定感をいっさい抱けずに悩んでいる人にはこれくらい明確な否定のニュアンスで攻めることもあるいは必要なのかもしれない。
自分を受容するという方法は、大学を休学~中退という時期にお世話になった施設で、そのときは「学んでいる」という感覚はなかったのですが、今にして思えば学ばせてもらったと思います。「あなたは自分のしてきたことはすべて無駄だったと思うかもしれないが、単位や卒業証書をもらうことが勉強ではない。勉強したことは、卒業した人、単位をとった人と比較したら少ないかもしれないけれどちゃんとあなたの中に残っているのだから、絶対に無駄ではなかったのだ」と言ってもらえた。それで大学生活を全否定せずに済んだし、ニートであることもみじめだと思わなくなったし、友達や恋人がいなくたって別に困らないと思えたし、自分が怠け者だとしても生きる権利は誰にも否定されないと信じることができた。こういうことはこの本の中にもでてくる言葉なのだけれど、私の人生を踏まえて「あなたはあなたを否定する必要はない」と言ってもらえるのとはやっぱり違うと思うのですよ。

今はこういうステージにいるからこそ「それでも承認欲求は飼いならしがたい」というハードルをひしひしと感じています。否定されることは怖いし、仕事ができないと指さされれば傷つく。その恐怖はそんなに簡単には克服できない。
だとしても、今の私は自分の人生をそんなに不幸だとは思っていない。理想の人生とは程遠く、やりたいことを実現できるイメージなんて持ってはいないけれど「まあいいか」と思えるようにはなったのです。

私なりに気が付いた承認欲求をある程度飼いならす方法に「日常の些細なことを大切にする」というのがあります。言葉にすれば実に陳腐なんですけどね。
日常の何気ないやりとりの中で交わされる「ありがとう」「助かった」という言葉を大切に拝聴するということです。
毎回そうするというのではないし、その言葉を得ようとしてわざわざ何かをする必要はないのです。むしろそんな下心は、言葉をもらえなかったときにがっかりしてマイナスになるので持たない方がいい。決まりきったことでも、何の労でもないようなことでも、人はしてもらったことに対して「ありがとう」と言います。買い物をしたお客さんに店員が「ありがとうございました」と言います。会議の始まりに司会者が「今日はお集まりいただきありがとうございます」と言います。言った側は事務的に発しているだけだろうと思われますが、そんな客観的な考えは持ち出さずに、その声を、言葉をかみしめる。それだけ。
もちろん自分が言うときも、ごくささやかでいいので意識的に心を込めるのです。それによって相手からの言葉を受け止めたときに受けられる効果(ポジティブな自己暗示ともいう)が増大します。できれば相手の目を見て。多くの発達障害者と同じように私も見つめあうことは基本的に苦手なので、これは「できれば」のオプションです。そうすると相手が笑い返してくれたりして、その反応も「ありがとう」と同じくらい自己暗示効果をもたらしてくれます。

「そんなんではとても満たされない」と思うでしょうが、「手に入れた」と認識するか「手に入れていない」と認識するかは違うのです。100のうちの1か0かのような、わずかな違いであっても、決定的に違うんです。
「誰にもできないような、自分だけの特別なことで、周囲に勝るような賞賛を手に入れたい」という壮大な承認欲求、満たされる人はほとんどいないでしょう。「できる人だと思われたい」「親切な人だと思われたい」といったものだって「ささやかで穏便な欲求だ」と自分で思っているほど簡単には満たされないのです。それを「手放す」のは実際不可能とも思えるくらい難しいんですが、「似た何かを手に入れた」経験をきちんと感じることで、「欲求の切実度」をセーブすることだったら案外できてしまうのです。
なまじっか私は子ども時代の成績はよかったので、「非凡でなければいけない」という鼻持ちならない強迫観念的なものを「そんな才能が自分にあると思ってんの?馬鹿じゃない?」というシニカルな自己否定とセットで抱いていた時期がありました。そんなふうに承認欲求をこじらせていると、日常の何気ない「ありがとう」というありがたい心の栄養が心に届かなくなるのですよ。
うちのボスの毎度の訓示は「客にも同僚にもあいさつをきちんとしなさい」です。いろんなところで繰り返し言われているありきたりなことだと思うのですが、額面通りの優等生的なイメージアップ戦略とだけ受け止めるのは、もったいないことをしているのかもよ、と思います。
あ、あと、ブログを読んでくれた方、あまつさえスターをつけてくれたりした方にも本当に感謝しております。人気ブロガーのスターの数とは2桁も3桁も違うわけですが、私の大切な心の栄養なのです。

いや、こういう方法って人によりけりだと思いますんで、どれくらい汎用的なのかは全くわかりませんけど…。

 

ついつい自分語りを長々としてから、本の内容に戻りますが、実際に悩みの深い人にはいろいろな突破口を示唆してくれる本だと思います。

ただ、もしこの本から「やっぱり私はダメだった、私がいけなかったんだ」みたいなメッセージを感じる人がいたなら、そんな風に思わなくていいということは強調したいと思います。
世の中には誰のせいでもない不幸というのが残念ながら存在します。強く正しく生きれば幸福になれるわけでも、たぶんないと思います。そんな努力や、苦労なんかより、ただ、自分を不幸たらしめているモノから離れることを恥じない勇気だけ、なんとか振り絞らなければならないのでしょう。でも、恐れる自分を否定する必要も、やっぱりありません。「恐れ」を認めて立ち向かうからこそ「勇気」なのだと思うのです。