休むに似たり

意味のない考えをぐるぐると巡らせるADHD女の思考の記録

何をやっても長続きはしないが、さして悩んではいない

今日は『「何をやっても長続きしない人」の悩みがなくなる本』(石原加受子 著)という本を書店で見つけたので、ブログで書いていたネタとちょっとかぶるなーと思って読んでみました。

いや、さして悩んではいないのですが 、やっぱり「長続きした方がいい」とは思うので。


www.amazon.co.著者はカウンセラーさんです。読みやすく書かれていてポイントもまとめてあります。

多分私の記事を読むより直接kindleなどで読んでいただいた方が早いのではないかと…

ざっくりまとめると「長続きしなくていいじゃん」ということです。

「なんでか」ということをもう少し紐解くと

「長続き『させなければならない』という考え方は、完璧主義や虚栄心、他人から否定されることの恐怖から発しているものであり、自分が純粋にしていることに対して感じている思いや気持ちが入っていない。そこには何の喜びもないため、自分の心に対して害しかもたらさない。『したくないからしない』という気持ちを否定する必要はない」

ということのようです。そのうえで物事の捉え方を変えて、していることに喜びを感じられるようになれば自然と続けられるようになるのだと説きます。
やってみて「面白くない」と思ったことはきっぱりやめて「やめてよかった」と思えばよいというのがこの本の基本的スタンスですが、「面白いかも」と感じたことを長続きさせる方法についてはもう少し具体的なコツも書かれています。気になる方は本を読んでみてもいいかもしれません。「なるほど~」と思いました。(わかったところでできるかどうかは定かではない)

「続けること」については、先日話題にした「永劫回帰」の話にもちょっぴりかぶるかもしれないです。
さらに「続けないこと」も立派に肯定的な選択肢たりうるという点に気付きがありました。よく科学者で「実験がうまくいかなかったら「この方法は違うということがわかった」という成果が得られる。別に失敗ではない」というようなことを言う人がいますが、何かを続けることだって同じなわけですね。

そうだねそうだねと思いながら読んではいたのですが、対面でのカウンセリングとは違い本であることの限界も多少は感じるところがあります。

多分この本の対象である自己肯定感が低い人で「多少自覚がある人」が読むと結構グサグサとくる部分があります。そのときネガティブに向かう気持ちのブレーキをあらかじめ用意するのは難しい感じがします。

「自分を感じる力が弱い」「未熟」「低い」という言い方がちょいちょい出てきます。また、人間関係の章では「他人からの見られ方を気にする割に他人をないがしろにする言動がみられる」「怒るようなことではない誤りを指摘する勇気がなく溜め込むうちに言えない不満が怒りになり、相手を否定し傷つけるような言い方をしてしまう」という指摘が出てきます。それはまさにそのとおりなだけに「グサリ」ときます。

自己肯定感の低い人は多分「じゃあどうやって自分を感じる力を高めることができるのか」とか「自分を大切にすると徐々に他人にも優しくなれるのかな」「気になったことを溜め込まず傷つけないように指摘できる勇気を持とう」と思う以前に「やっぱり私はダメなんだ」と思ってしまうのではないかと、感じました。よく精神科医斎藤環先生が引きこもりの傾向として「自分が成長できると信じていない」と述べているのですが、そういう人だと「弱い」「未熟」という言葉から「向上の余地がある」というポジティブな発想をそもそも抱けないのではと思います。私も多分にそういう傾向があるだけに、想像できてしまいます。
カウンセリングならそういう人の生の反応を受け止めたうえで、もう一度ポジティブな言葉を「直に、その人に向けて」発してあげることができるわけですが、不特定多数に向けて書かれた本では、そういう欠点の指摘は「自分のことを言い当てられた」と思うのに、後に続く肯定的な言葉は「どうせ自分に対して言っているのではない」あるいは「自分にはできそうもない」と感じてしまうのではないかな、なんて思ってしまい。この本に書かれている「自己肯定感の低い人の認知傾向」をそのまま当てはめれば必然的にそうなるわけです。こればっかりは、本なのだからどうしようもないことなのかな、とは思うのですが。

また、虚栄心や誰かから感謝されたい、ほめられたいという気持ちもまた否定されていいものではないはずです。いわゆる「承認欲求」というやつですが、これをむやみに否定することもまた自己否定だと思っておりまして。
まあいかなる欲求に対しても「貪」であっていいわけではなく、いかにして「節度」を身に着けコントロールしていくかということは重要です。自己肯定感の低い人は「自己実現欲求」はがっちり封印しているのに対して「承認欲求」に対しては無自覚に貪欲だから、まず自己実現欲求を徐々に解放して、そっちにフォーカスすることでバランスを整えていこうという考え方は正しいのだと思うのですが、何しろそういう人ってバランス感覚が完全にぶっこわれている。だから、この本を読んで感じることは「他人に認められたいと思うのはいけないことなんだ」になってしまいかねないと思うのです。
論理的に冷静に読めば「他人に認められたい」という気持ちもまた「自分が感じていること」のひとつなのでむやみに否定しなくてよいのだとわかるとは思うのですが、最初の感覚としては非常に「否定された」感覚が強かった。それが正直な感想。

ただ、それは私が実際のところ「真に徹底的な自己否定」のステージにはないからなのかもしれない。本当に自己肯定感をいっさい抱けずに悩んでいる人にはこれくらい明確な否定のニュアンスで攻めることもあるいは必要なのかもしれない。
自分を受容するという方法は、大学を休学~中退という時期にお世話になった施設で、そのときは「学んでいる」という感覚はなかったのですが、今にして思えば学ばせてもらったと思います。「あなたは自分のしてきたことはすべて無駄だったと思うかもしれないが、単位や卒業証書をもらうことが勉強ではない。勉強したことは、卒業した人、単位をとった人と比較したら少ないかもしれないけれどちゃんとあなたの中に残っているのだから、絶対に無駄ではなかったのだ」と言ってもらえた。それで大学生活を全否定せずに済んだし、ニートであることもみじめだと思わなくなったし、友達や恋人がいなくたって別に困らないと思えたし、自分が怠け者だとしても生きる権利は誰にも否定されないと信じることができた。こういうことはこの本の中にもでてくる言葉なのだけれど、私の人生を踏まえて「あなたはあなたを否定する必要はない」と言ってもらえるのとはやっぱり違うと思うのですよ。

今はこういうステージにいるからこそ「それでも承認欲求は飼いならしがたい」というハードルをひしひしと感じています。否定されることは怖いし、仕事ができないと指さされれば傷つく。その恐怖はそんなに簡単には克服できない。
だとしても、今の私は自分の人生をそんなに不幸だとは思っていない。理想の人生とは程遠く、やりたいことを実現できるイメージなんて持ってはいないけれど「まあいいか」と思えるようにはなったのです。

私なりに気が付いた承認欲求をある程度飼いならす方法に「日常の些細なことを大切にする」というのがあります。言葉にすれば実に陳腐なんですけどね。
日常の何気ないやりとりの中で交わされる「ありがとう」「助かった」という言葉を大切に拝聴するということです。
毎回そうするというのではないし、その言葉を得ようとしてわざわざ何かをする必要はないのです。むしろそんな下心は、言葉をもらえなかったときにがっかりしてマイナスになるので持たない方がいい。決まりきったことでも、何の労でもないようなことでも、人はしてもらったことに対して「ありがとう」と言います。買い物をしたお客さんに店員が「ありがとうございました」と言います。会議の始まりに司会者が「今日はお集まりいただきありがとうございます」と言います。言った側は事務的に発しているだけだろうと思われますが、そんな客観的な考えは持ち出さずに、その声を、言葉をかみしめる。それだけ。
もちろん自分が言うときも、ごくささやかでいいので意識的に心を込めるのです。それによって相手からの言葉を受け止めたときに受けられる効果(ポジティブな自己暗示ともいう)が増大します。できれば相手の目を見て。多くの発達障害者と同じように私も見つめあうことは基本的に苦手なので、これは「できれば」のオプションです。そうすると相手が笑い返してくれたりして、その反応も「ありがとう」と同じくらい自己暗示効果をもたらしてくれます。

「そんなんではとても満たされない」と思うでしょうが、「手に入れた」と認識するか「手に入れていない」と認識するかは違うのです。100のうちの1か0かのような、わずかな違いであっても、決定的に違うんです。
「誰にもできないような、自分だけの特別なことで、周囲に勝るような賞賛を手に入れたい」という壮大な承認欲求、満たされる人はほとんどいないでしょう。「できる人だと思われたい」「親切な人だと思われたい」といったものだって「ささやかで穏便な欲求だ」と自分で思っているほど簡単には満たされないのです。それを「手放す」のは実際不可能とも思えるくらい難しいんですが、「似た何かを手に入れた」経験をきちんと感じることで、「欲求の切実度」をセーブすることだったら案外できてしまうのです。
なまじっか私は子ども時代の成績はよかったので、「非凡でなければいけない」という鼻持ちならない強迫観念的なものを「そんな才能が自分にあると思ってんの?馬鹿じゃない?」というシニカルな自己否定とセットで抱いていた時期がありました。そんなふうに承認欲求をこじらせていると、日常の何気ない「ありがとう」というありがたい心の栄養が心に届かなくなるのですよ。
うちのボスの毎度の訓示は「客にも同僚にもあいさつをきちんとしなさい」です。いろんなところで繰り返し言われているありきたりなことだと思うのですが、額面通りの優等生的なイメージアップ戦略とだけ受け止めるのは、もったいないことをしているのかもよ、と思います。
あ、あと、ブログを読んでくれた方、あまつさえスターをつけてくれたりした方にも本当に感謝しております。人気ブロガーのスターの数とは2桁も3桁も違うわけですが、私の大切な心の栄養なのです。

いや、こういう方法って人によりけりだと思いますんで、どれくらい汎用的なのかは全くわかりませんけど…。

 

ついつい自分語りを長々としてから、本の内容に戻りますが、実際に悩みの深い人にはいろいろな突破口を示唆してくれる本だと思います。

ただ、もしこの本から「やっぱり私はダメだった、私がいけなかったんだ」みたいなメッセージを感じる人がいたなら、そんな風に思わなくていいということは強調したいと思います。
世の中には誰のせいでもない不幸というのが残念ながら存在します。強く正しく生きれば幸福になれるわけでも、たぶんないと思います。そんな努力や、苦労なんかより、ただ、自分を不幸たらしめているモノから離れることを恥じない勇気だけ、なんとか振り絞らなければならないのでしょう。でも、恐れる自分を否定する必要も、やっぱりありません。「恐れ」を認めて立ち向かうからこそ「勇気」なのだと思うのです。

料理は嫌い

料理は嫌いです。

1品だけをただ作ればいいのなら、別にどうということはないのです。

一応以前一人暮らしはしていたので、コメを炊いておいて何食分か作り置きしたみそ汁やスープを温めて、その他に「1品」だったらなんとかやれなくはないのです。
しかし母に言わせるとどうやらそれでは「料理」とはいえないらしい。まあ母も料理は嫌いといってはばからない人なんですが、義務感だけで栄養バランスを考えた料理を作っていただいております。ありがとうございます。

何が嫌ってそのハードルの高さというか料理の道の深遠さが嫌いですね。

いろんなおいしいものを食べる喜びとそれを作れる喜びがうまいこと結びついていれば、きっと料理は好きになれるのではないかと思います。

私は「どうしても嫌い」なのは魚介類の一部と佃煮系くらいで、そこまで食べれないものは多くないと思ってるんですが、作ってでもぜひ食べたいくらい好きな食べ物ってすごく少なくて、外食でも「めんどくさい」ので「この店ではこの料理」ってのはあるんですが「おいしいから」「好きだから」ってのはあんまりないんですよね。
一言でいえば料理に対して情熱がない。しかもマルチタスクがだめなので、主菜と副菜と汁物を一気に作るとか冷蔵庫の中身を見てありものでメニュー考えるとかは本当に苦手。心底めんどくさい。
(こうやって書いていくと、フィギュアスケート宇野昌磨さんが「食べることに関心がない」といって偏食しているのを思い出しますが(いや彼は野菜がダメという弱点があってより偏食の印象が強いんですが)傾向はちょっと似てるかも。余談ですが、カテゴリーにフィギュアスケート用語使ってるようにフィギュアスケートは結構好きで見ております。)

栄養バランスをきちんと考えて、またおいしさを感じながら食事することはメンタルヘルス的にも重要らしいので、そういう意味ではできるだけバラエティ豊かな料理を食べた方がいいんだろうなとは思うのですが、土台からそういう気持ちがない人ってどうしたらいいんだろう。

餅は餅屋・事務は事務屋

部署と業務が変わり、個人的に新たな挑戦(多分周囲からみたら挑戦などというほどのことではない)などもしており、しばらくブログに手をつけられないでおりました。

新しい部署は、まあ前のボスと人事担当の方がある意味で配慮してくれたのでしょう、のんびりしたところでした。
これまでの部署は5分に1度は鳴る電話をさばきながら各種のお知らせを作成して発送しまた到達した書類を受け付け、広報用の資料なども作り上司と関係機関にお伺い立てながら翌月の計画を立案し、物品を発注し支払いの手続きをし、利用者から徴する料金を計算して請求書を送り付け、消耗品光熱費通信費関係の使用量を確認し予算管理をし、定例の報告を部署内でとりまとめ書面にして提出し、ボスはもちろん、それぞれの業務担当者への来客があればお茶を出し…
というようなところでしたが、
今は電話も窓口対応も1時間に1回くらいずつ、計画企画関係は元いる職員がやってくれるので今のところは何も考えなくてよく、物品発注と支払いをして在庫と予算を管理し、諸々記録をつけ他部署への報告書を作成し、ついでに長年未整理になっている資料・データ・アーカイブをちょっとずつ整理してくれればいいですよ、と言われている。再来月頃に大掛かりな作業を控えているそうなのでそれを経験してみないとまだ何とも言えないし、ルーティン業務をひととおり覚えたら新しい業務も教えてもらうことになると思うんですが…

今のところではありますが本当に極楽浄土かというくらいマイペースでやれています。しかし、それはここが専門性の高い部署で、私には専門の業務をやるスキルがない代わりに「雑用」のような業務をやるスキルだけはなんだかんだと他部署で鍛えてきたからにすぎません。
そう、人事はこれまでこの部署に専門職のみ配置して、事務屋がいないまま自己完結的に業務をやらせていたのです。事務屋から言わせると確かに溜めてさえなければ1日1時間でできるようなほんの少しの雑務なのですが、専門職が本来業務をやっていれば後回しになってしまうし処理能力も上がらない。それが溜まりに溜まって雑然とした状況になっていたのが今の職場でした。
職場の人はみないい人ばかりです。専門的なスキルがあり使命感もある。やりたいこともたくさんある。でも未整理の仕事もそれ以上にいっぱいあるわけですよ。

昔ながらの紙で記録をつけていた時代の資料もたくさん残っていて、今は窓口業務用システムが備えてあるのですが、システムから年次集計データ一つ呼び出すのにも難儀していました。私が10分ほどでそれらをまとめて印刷しただけで大げさに喜んでくれて、これまでこういうことにどれだけ苦労してきたんだろうと感じずにはいられなかった。

私は何かの専門職に進むという決意ができないまま漫然と学生時代を過ごし、ただの事務屋になってしまったのですが、本当の事務のスペシャリストには程遠く、どっちかというならやっぱり専門職の方々の方の気持ちがわかります。わかるわかる。こんな雑務に煩わされてたら仕事に集中できないよね。まさに「片付けが苦手な人がひとりでがんばってきた状況」に似ています。

彼らの気持ちがわかるので、私がせいぜい10年ほど周囲に足手まといと言われながらやってきた事務のスキルで彼らの苦手分野を補って得意なことに専念してもらえるのならこんなにやりがいのあることはないと心から思えました。
ずっと、事務に向いてない、事後処理の仕事大嫌い、と思っていたんですが、彼らにそういうつらさ煩わしさを感じさせないためなら頑張れるような気がする。事務屋がこんなに必要とされているなんてこれまで感じたことがなかった。

まあ今やっていることだけでは、溜まった資料整理が終わったらここにいる理由がなくなってしまうので、専門の部分もせめて補助的な業務はちょっとずつ勉強しないと、いずれいさせてもらえなくなるだろうと思ったり。それをどれだけきちんとものにできるかが現在の最大のテーマかな。

さて、お察しいただけた方もいると思うのですが、うちの職場には今人員削減の波があって、専門職の人にも一部の事務はやらせるという流れになってます。しかし、それでサービスの質、あるいはそこだけは落とさないようにした結果コンプライアンスとか広報とか周辺業務の質が著しく落ちているということも一端として感じられてしまいました。
私は薄給でぜんぜんかまわないんだけど、専門職をもっと大事にした方がいいと思うなー。
それに事務屋には専門職の知識や見識の深さを舐めている人が多い。そこにも忸怩たるものを感じています。それで契約の相手先の質を見誤って痛い目を見てきたこともあるわけですが「技術屋は適当だから信用ならない」という認識を持ちがち。我々が勉強不足、勉強してる暇がないから営業だけうまくて技術がない会社に騙されてるような気がするんだけど、それでいいんかいなー。
専門の業務もできて事務もできて新しい技術も理解できて、なんてそんなハイパーマルチ人間がうちみたいなクソ田舎で働くほどゴロゴロしちゃいない、という現実も、理解していただきたいですよ。何か狭いことしかできない人だって食べて生活して、世の中の需要と供給がきちんとまわるような社会をつくることも一種のCSRでしょう。そしてどんな小さな需要であってもちゃんとしたものを供給してくれる人にはお金はもちろんですが「尊敬」という最低限の対価を支払ってしかるべきです。

いや、実際には、人員を減らさないとお給料払えないという現実も一方にはあって、人事方面の方々は我々以上に苦労してると思っておりますがね…
毎度苦労かけてすみません。今のとこ新しい部署は向いてそうな気がしているのでがんばって勉強するのですぐ飛ばさないでくださいお願いします。

(ていうかもう前の職場のような嵐のような部署には戻りたくないですお願いします。)

片付けとは永劫回帰である

片付けという行為をしているといつも思う。

「どうせまた散らかるのに」

「どうせ」という言葉には一種のニヒリズムが漂っている。私のしようとしていることは無意味なのだろうという予測がそう言わせる。

片付けは無意味ではないのだが、意味の有効期限が短い。間もなく効果は切れて、再び同じことをしなければならなくなってしまう。私にはそれが心底苦痛なのだけれど、そんなことは屁理屈でしかないこともまあよくわかっている。

食事だって効果がすぐに切れて再び食べなければならないが、それが面倒という人はいない。料理はまあ、別だけど。また私は個人的に、入浴ならそこまでめんどくさいという感覚が生じない。音楽を聴いたりテレビを見たり、ゲームをやったりも、あまり繰り返せばやっぱり飽きはするのだけれど、ある程度の繰り返しには耐えることができる。

ニヒリズムを究めたニーチェの「永劫回帰」という思想はまあそういうことで、「この行為が私を一つ上のステージに前進させてくれるのだ」と信じて、いわば「功徳を積めば」「いつか解脱できる」と期待してやってても期待通りになんてまあならないので、繰り返すことそのものを愛し楽しむようになるしかないというような話だ。この思想そのものにはそれなりに批判もあるようなのだけど、一面ではやはり真理だよなーと、片付けをすると思うのです。

バカの壁」で有名な養老孟司先生の本の中で「休まずずっと生産活動を続けることはできない。状態を回復させるための時間が必ず必要で、掃除や片付けというのはそういう時間だ。そういう時間を軽んじてはならない。」という話が出てきた記憶があります。何の本だったかは忘れちゃった。生産活動とはすなわち散らかす活動だし、実は黙っていても宇宙は散らかっていくようにできているので、整頓して片づけて生産できる状態に回復してやらないと生産を続けられない、というわけ。人も食事して発散してしまったエネルギーを蓄え直す必要があるし、睡眠して記憶を整理する必要があるわけですが、場所も同様に「整然さ」を蓄え直す必要がある。そう、「整然としている」のが生産活動に適した高エネルギーな状態で「散らかっている」のは低エネルギーな状態、という解釈だとすっきりするかもしれない。給油する、補充する、と同じように「片づける」を位置づけなければならない。

しかし、その養老先生のお話を読んだときに思ったのが「これはシーシュポスの神話だな」だったわけです。

シーシュポスは岩を山の頂まで押し上げる。岩は山を転がり落ちる。再び岩を山の頂まで押し上げる。岩は再び転がり落ちる。そんなイメージ。
まあ、実際には岩が転がり落ちてるんじゃなく、生産活動がなされているのだから、まあせいぜい滑り台をするために何度でも飽きずに階段を上がっていく子供くらいが適切でしょう。そう思えないのは、生産活動が滑り台ほど楽しいと思えていないか、階段をとんとん上がっていくスムーズさではなく岩を押し上げるような苦痛をそこに感じているか、ということなのかなと思います。

どうしたらこの苦痛が和らぐのか、どうしたら滑り落ちることを楽しいと思えるのか。永劫回帰を受け入れる超人のようにならなければいけない、などと、やたら大げさな考えを巡らせてしまう、そんな人間なんですよ私は。

年度末に仕事のユニバーサルデザインとか愚考していたという話

仕事の担当が変わることになり、非常にどたばたしています。

普段いろいろ二の次になっていたことが「これを終わらせておかないと次の人に渡せない」という状況に…。
本当に「きちんと仕事する」ことができないなぁと実感しています。また、どこまで前もって仕事の進め方を次の方に伝えておくのかも悩みます。私はかなり説明がくどい人間で、要点をかいつまんで伝えるということが苦手です。聞かれたら教えればいいかとも思うんですが、他人がやってないようなへんてこな仕事の痕跡を残していくので「なんだこりゃ」といろんな場面で思われてしまうのだろうなと不安なんだと思います。

当たり前の手順ではうまくできないので自分なりの手順で進めてきたことがたくさんあります。普段その手順をいちいち周囲の人に説明することはありません。自分の中でいかに合理的な手順だろうと、それは他人と同じようにできないから苦肉の策でそうしたのであって、積極的にオープンにしていくことは後ろめたいのです。きっと「かえってややこしい、いらない手順だ」と言われてしまうんだろうなと。でも引継ぎをする人は何の説明も受けずにその手順ですすめた仕事の痕跡を見てしまうことになるので、困惑するのではないかという気持ちがあります。

誰がやっても同じようにできる、仕事の均質化、手順の共有を図っておくことは、組織のマネジメントとして重要なことだと思います。

知的障害者の雇用で先駆的な業績を残した有名なチョーク工場では「知的障害者が理解できる仕事の手順」への見直しを徹底したところ健常者の仕事のエラーも減って品質が向上し全体の作業スピードも上がるなどの効率化を図ることができた、といいます。
具体的には、たとえば材料は一目でわかる容器に入れておくこと。「石灰を○グラムに○○を○グラム…」ではなく「赤い缶の粉をこの赤いバケツに1杯、青い缶の粉はこの青いバケツに1杯」と説明すれば間違えない。後は検品の時にノギスで寸法を測るのではなく「太めの溝」と「細めの溝」を用意しておいて、「太めの溝を通らないチョークと細めの溝を通ったチョークはだめ、太めの溝は通るけど細めの溝は通らないチョークはOK」というようなやり方にしたのだそうです。ちょっとしたことなんですが、それが仕事の質を改善させたんですね。

その事例を考えると、私のやっていることは若干それとは真逆の方向に行っている気がします。

もしかしたら、他の誰かが私が苦心して編み出した手順を「こりゃいい」と思ってくれて、ひそかにそれが広まったりしてくれたら、私がここで仕事している意味がひとつでも増えるのかななんて思いもします。

思うだけで、提案できないのは、もしかしたら自分が「知的障害者に健常者の手順を押し付ける」類の愚を犯そうとしているのかもしれないとふと思うことがあるからです。(それを実際にやって確かめてみないのは、臆病だからかもしれません。最近病気で亡くなった何年か前の上司が、却下された私の拙い提案に対して「それが通らないとしても「こうした方がいい」と言ってみるのはいいことだよ。気を落とさないで」と言ってくれたのを思い出しました。せっかく言っていただいたことを生かせてないなぁなどと)

学校の勉強はあまり頑張らなくてもできたのですが、だから「頑張ってもできない」人の認知のあり方が私にはよくわからない。
でも仕事はそういう人ができるものでなければならないと思います。

ただ、将来はそうともいいきれないのかもしれない。

「サピエンス全史」というベストセラー本を書いたハラリという歴史学者は、将来の人類史を予測する「ホモ・デウス」というこれまたベストセラー本で、AIが人に勝る点を「一度方法論が確立できてしまえば容易に複製可能」である点と述べています。半導体からハードを組み上げていったって、ひとりの人間を高度な技術を持つ一人前のプロフェッショナルに育て上げるほどの労力も時間もかからない、というのです。そうなったら、標準化できる仕事に固執する人間から彼が最悪の未来として予測している「無用者階級」に落ちていくのかもしれない。(彼は「技術が確立した時点で豊かな人間から自分や子供をバイオテクノロジーで進化させて超人的存在になるので、そういう資本のない貧しい人間に勝ち目はなくなる」というようなことも言っており、「無用者階級」になるのは進化できなかった人たちというのが本旨なんですけどね。)

そういったところで、今の社会で「標準化できないような仕事をするべき」ということにあまり意味があるようにも思えない。「標準化できない」とは「誰もができない」ということであり、ならば必然的に「できない人」はいる。よしんば誰もが自分だけのオンリーワンのアイデアを持っていたと仮定しても、社会で共有できないことは社会の価値、つまり仕事にはなりえない。たまたま「社会で価値を共有できる」「誰もができない」ことができるという幸運に与った人間だけが、それをできるんです。しかも、標準化できない仕事が「社会に必要とされた」ら、それをできる人を失った社会はどうなるのでしょう。本当に必要なことは、やっぱり、朝ドラのモデルになった安藤百福が言った「大樹ではなく森を育てる」ように誰もができる形で普及させなければならないのです。
いずれ「オンリーワンの仕事」ができない人を社会が置き去りにしていいと考えることは、私にはできません。自分自身そんなものができる自信がありませんし。彼ら、あるいは私たち自身をどうやって価値ある存在として未来に連れていくかを真剣に考えなければならないと思います。

まあ、しかしそれはちょっと手ごわすぎる課題なので、めんどくさがりの私はとりあえず「それが仕事になるかどうかはさておき、好きなことを積極的にできる自分を保っておくことは大事かもね」というだけにとどめておきたいと思います。

しかし今年度中に整理しなきゃない私の業務用PCの中身はまだグッチャグチャなのに、こんな時間にブログなんて書いてて大丈夫なのか?

KTSとかいう性格分類

前回「わかる」と「できる」の話で触れた心理学者の作った性格分類の話をしようと思います。

欧米ではわりとメジャーな「MBTI」という性格分類があり、いろいろなサイトでそれに類する性格診断(実際には研修を受けた資格者が検査と説明をするものとのこと。確かにこの手の診断は「この質問どういう意味ですか?」と聞き返したくなる設問が多いんですよね)が紹介されていますが、このKTSというのは切り口に用いる用語はMBTIに準じているものの、設問の立て方や「大分類」の仕方が違うという、紛らわしい性格分類です。

現在日本語で読める確かな記事がないのですが、とりあえず英語のWikiをはっておきます。

en.wikipedia.org

かつては日本語の書籍などもあったようなのですが、私はちゃんと購入したわけではなく読んだ人の話を読んだだけなので、おおまかにしか理解していません。なので、もしかしたら間違っているかも…話半分で読んでいただければ。

ここで紹介されている4つの気質は

「芸術家」の資質 … 感じたまま、ひらめきを行動にしていく人たち。
「守護者」の資質 … 社会秩序を守り、財と実績を積み上げていく人たち。
「理想家」の資質 … 世界の法則を客観的に分析し、解明しようとする人たち。
「宗教家」の資質 … 心を持つ者たちの幸福と平和を追求する人たち。

と、だいたいこんな感じに分けられています。

さらに細かくそれぞれが4タイプに分けられ、16分類になるのはMBTIと共通しているのですが、評価軸の使い方が大きく違います。

MBTIの4つの評価軸はこうです。
「外向(E)」か「内向(I)」か
「感覚(S)」か「直観(N)」か (「直感」ではなく「直観」であることに注意が必要)
「思考(T)」か「感情(F)」か
「判断(J)」か「知覚(P)」か (ユングの8タイプにはなくMBTIで増えた軸がこれ)

MBTIはユングの8タイプで「感覚」「直観」「思考」「感情」の4つにわけるとしたところを2次元的に分解したのですが、4つにわかれているように見えるのは「判断/知覚」のどちらに寄っているかで「判断」寄りの軸「思考/感情」を重んじるか、「知覚」寄りの軸「感覚/直観」を重んじるかが変わるから、と考えたようです。しかしこれは「内向」の人は「反転する」とも説明されています。「判断/知覚」はあくまで「外界に対する対応」であり、「内向」の人が本当に重んじていることは「内に秘めて出てこない」というのです。

まあ元になったユングの考えにどれほどの根拠があるのかといえばそこまでなのですが、ここの説明が微妙に「本当かなぁ」となってしまいます。内向だからって外に対する態度が反転までするということがあるんだろうか?

一方KTSではユングの考えに合わせる努力ははなから放棄しているようです。
「感覚/直観」軸が最初の指標になり
「感覚」の人は「判断」か「知覚」かが重要
「直観」の人は「思考」か「感情」かが重要
と考えます。
外界だろうと内面だろうと事象は事象でありそれを「感じようとするか」「観じようとするか」でその次にどうするかが変わるというのです。
「感じる人」はその事象を「どう用いるか」の違いが重要になります。
「判断する」人は常に安定した処理ができるよう感じた事象に一定基準のタグをつけていきます。「いいことか悪いことか」というようなものですね。棚に物事を分類整理したり、何かを言語化するプロセスにも似ているかもしれませんね。
「知覚する」人はそういう基準によらずその場のノリで処理していきます。あるいは言語化できないような基準で処理しているのかもしれませんが、あくまで「今感じているそれ」を見ており、つけたタグを読んでいるわけではないのです。
「観じる人」は事象を「どう解釈するか」の違いが重要になります。
「思考」を基準にする人は客観的に、正確に、間違いのない普遍的な答えを出そうとします。正確さを追求するあまり、「直感的には理解できない答え」になってしまうこともあります。相対性理論の意味するところを「直感的」に理解することはなかなか難しい。しかし宇宙の姿を端的に説明するそれはきわめて「直観的」な答えなのです。
「感情」を基準にする人は主観的に、ただしより「共感」でき「納得」できる普遍的な答えを出そうとします。「平和は尊い」「人を殺してはいけない」「利他的であるべきだ」といった事柄について「なぜそういえるのか」を懸命に伝えようとするのです。

「外向/内向」はどこいったという感じですが、MBTIは「外向/内向」を「他人からエネルギーをもらう」「他人にエネルギーを奪われる」と表現したのに対しKTSでは「発信しようとする」「受信しようとする」と表現しています。考え方が全く違うし、そこまで大きく重視もしていません。

それで
「感じて・知覚する」SPの人が「芸術家」
「感じて・判断する」SJの人が「守護者」 
「観じて・思考する」NTの人が「理想家」
「観じて・共感する」NFの人が「宗教家」
という大分類になるわけです。細かく分けるとさらに4種類ずつに分かれて、芸術家でも職人気質なのかエンターテイナーなのかみたいな違いが出てきます。

感覚と直観の人が分かりあうのはとても大変なんだそうです。言語が違うようなものだと説明されています。一方でEとI、TとF、PとJは補い合う関係の方がうまくいくんだとか。
そして、S:Nは3:1くらいになるんだと。このSというのが「How」で考える人で、Nというのが「Why」で考える人。つまり物事を「どういう形で進行し、それに対し自分がどう対処すればよいか」のプロセス分析で理解していく人と、「物事が起きた原因、目的、意味は何か」の本質分析で理解していく人ということになります。前者の方が即時的現実的な行動が可能ですが、対症療法にとどまり、長期的には事態が悪化する事柄も出てきます。後者は当面の現実的な対処方を提示できるわけではないのですが、うまくいけば根本的な解決につながりうるわけです。

私が昔紹介されていたこの診断の日本語版をしてみたところ、「宗教家」の分類になりました。宗教というと日本人にはうさんくさげに響くのですが、例えばマザーテレサやダイアナ妃がこの分類にあたるということです。
他人が喜んでいればうれしいし、気持ちを害していることが平気なわけではないのだけれど、残念ながら「気が利く」わけではないのです。

多分Sの人は「できる人」を目指す人でNの人は「わかる人」を目指す人なのかなぁと思います。(「できる人」、「わかる人」で「ある」わけではない)

なお、家族で「チコちゃんに叱られる」って番組見てるとチコる率が一番高いのは私ですが、一番ボーっと生きている自信があります。あれは「なんで?」って聞いてくるので向いた番組なんですよ。いつまでも5歳のように「なんで?」と思い続けられる人は、時の制約に縛られずボーっと生きてる人だと思っています。

「わかる」と「できる」の間の深い谷

ADHDができないことといえば、最も重大で困ることは2つ。

マルチタスクができない

・片付けができない

ということ。これは私にもよく当てはまります。

 

今回はマルチタスクについて考えてみますが、タスク管理で重要なことは大まかに言って(1)業務の優先度を比較したうえで、各業務の手順を分割して1本の日程に割り当てスケジュールを組む(2)「時間があればやりたいこと」は業務と別にリストアップしておく(3)業務の増減や進捗に応じ逐一スケジュールをアップデートする といったあたりです。

(1)は基本的なことですが、我々は物事の優先順位付けが苦手なのがまずネックです。
ADHDというのは「その時脳に入ってくる情報のフィルタリングがうまくできない」特性があります。
授業中の先生の話も校庭でよそのクラスがやってるサッカーも同じように頭に入ってきて、その時「やりたい」と思う方に引き付けられます。あるいは「ここに座っていなければ怒られる」ということも「ここの物音は耳障りで落ち着かない」ということも同じように頭に入ってきて、その時「避けたい」と思う状況を避けます。私の場合「めんどくさい」が「あとで困る」に勝ってしまう。「やるべきこと」を最優先、「やりたいこと」はその次といった順番をうまくつけられないわけです。
それでも大人になれば「やるべきこと」と「やりたいこと」の区別はついてくる。やらずに痛い目にあったことが「やるべきこと」。そこは、ゆっくりゆっくりではありますが、学習するようです。

では、やるべきことが同時にいくつもあったら?

ADHDはどうしても「その中で比較的やりたいこと」から手を付けてしまう。やりたくないことは後回し。相手が少し待てるのかすぐやってほしいのかとか、相手の対応に時間がかかるためそれを見越して早く連絡する必要があるか、一度連絡すればすぐ済むことか、といった、状況や周りの都合などを即座に適切に勘案し「いかにやるべきか」まで含めて判断するのが苦手なわけです。「同時にいくつも進めたらこんがらがるので1つずつやる」といった、自分の癖を分析しての学習やプランニングはできるようになっていくと思います。でも仕事というのは周りの都合に合わせてやらなければならないことがたくさんあります。そうなると、途端にダメになります。例えば電話応対をしなければならない状況で自分が主担当で企画している長期の重い仕事と依頼された短期で完了する軽い仕事の2つをしていたりすると、電話応対後自分が今どちらの仕事をすべきなのかわからなくなっていることが多々あります。

(2)も一種の優先順位の問題ですが、仕事が順調なときにやっておいた方がいいことをやっておくと、仕事が順調でないときに助けになると思います。ただ、業務に割くべき時間を食ってまでそれに打ち込まないような線引きが必要で、ADHDはしばしばそれがあいまいになってしまうわけです。
例えばよく「これ1件ずつベタ打ちするの時間かかるしミスも多いから何とか関数で計算とか入力とか検算とか全部できるワークシート作りたいなー」みたいなことがあるのですが、「いやここはこっちの関数の方が応用がきくんじゃね?」「いやでもこういうデータがあるとエラー出るわさっきのの方がいいか」とかやってるうちにベタ打ちするよりよっぽど時間が経過している…というようなことがあるわけです。進捗状況をチェックして余裕があるときにやらないと、作業をする段になってそんなこと考えてる暇はないんですよ。まあ、私の場合、要領悪すぎて余裕なんて作れないんですけどね!

(3)はしばしばASDについて「突発事態や予定変更が苦手」ということが言われるわけですが、ADHDの場合「変更そのものは別にいいんだけど、当初の日程の間に挿入するのではなく上書きで書き込んでしまう」ことが多く、結果として「当初の計画にあった業務が消失」という事態に陥りがちです。でなければ「できなかった仕事の変更しか考えてなかった結果予定がダブルブッキングしたり、玉突き的に締切厳守の別の仕事が押し出される」とか。失敗を繰り返した結果トラウマ的に突発事態や予定変更が苦手になる場合もあると思います。
上記の電話応対の例でいえば、受けた電話が緊急連絡だった場合、2つの仕事のどっちも完全に投げ出して二度と戻ってこない。「今日はもう疲れた、明日やろう」といって明日になれば忘れています。そもそも「いろいろな事情を想定して計画を立てておく」ことが苦手なのですから「その都度また計画を修正する」ことが得意なわけがありません。私の場合「計画を変更するのがめんどくさいから計画なんか立てたくない」と思うことが多々あります。

と、まあ、あるある失敗談を書き連ねてきましたが
「わかっているなら対策したらいいじゃん」
てなりますよね。
まあ、スーダラ節さながら、わかっていてもできないことなんて誰にだってあるわけですが。「知行合一」などと格言になるのも、それが難しいからにほかならないのですが。

どうにも私は、何事も「めんどくさい」という回避衝動にあらがうことが難しい。

わかっててできないことが、本当に多すぎます。

 

「わかる」と「できる」のギャップに関しては、もう少し別の切り口からお話しすることもできると思います。
「世の中には『How』で事象をとらえる人と『Why』で事象をとらえる人がいる。両者は相互理解が難しく、『Why』は少数派である。」ということを論じた心理学者がいます。どちらのタイプか判別する心理テストもあるのですが、私は後者でした。
これに関しては、また後の機会にでもじっくり書きたいなーと思います。